腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
額にキスが落ちてくる。
「貴女はよくやってくれていますよ。お稽古場の雰囲気が良くてとても助かります」
「それ……私、関係あります?」
「もちろん」
玄兎さんが即座に頷く。
「僕が体調を崩している間、すぐに柏屋に詫びを入れて、稽古場にずっと差し入れしてくれたのも大きかった。それに既に予想外に顔が広くて……僕自身の体調の管理不行き届きを、日向子さんに免じて許してくださった方も多かったでしょう」
「そうですかね?」
私がしたことは、表向きの礼儀を取り繕ったくらいのもの。そんな大それた効果があったとは思えない。
もちろん、多少なりとも許してもらえればいいなと思って差し入れはしたけど、しないよりマシかなくらいのつもりだったのに。

「今回は完全アウェーのつもりでいました」
「そう、なんですか?」
「柏屋との提携だって外堀から埋めて実現させたわけですから、鴛桜師匠の心情的には面白くなかったはずです。一門の旦那が面白くなく思っていれば下に伝わるでしょうし、そんな状態でいきなりの病欠ですから。どんなに悪く思われていようとも覚悟はしていました」
私を見つめる目が優しくて、また鼓動が速くなった。
「でも……貴女のおかげで、芸だけで勝負ができます」
左右之助さんの手が私の掌に重なる。一見すると繊細そうに見える指は、三味線のタコができていて、思ったよりも大きくゴツゴツしていた。
「お役に立ったなら何よりです」
男の人の手なのだと思うと、ますますドキドキが止まらなくなる。

「成経は、千鳥に会ってどれだけ生きる希望をもらったでしょうね」
話が唐突に俊寛に戻った。
今まで都で何不自由なく暮らしていた成経が、一緒に流罪になった三人しか話し相手がおらず、食べるにも事欠く暮らしの中で出会った海女の千鳥。逞しく生きる彼女を見て、どれほど生きる希望をもらっただろう。そうして惚れ抜いて妻にと望んだ相手……そんな女性だ。
「そんな一足飛びに何もかもしようとしなくていい。いてくれればそれでいいんです。千鳥のように」
「玄兎さん……」
「おやすみなさい、日向子さん」
「はい、おやすみなさい」
またキスされた額がくすぐったい。

繋いだ手の指を絡めてみると、玄兎さんも同じようにしてくれる。たったそれだけのことで胸がいっぱいになった。

これから──公演が終わるまでの間に、どれだけこの人と近づけるだろう。

出会って間もないのにそうしたいと思うのは、抱えているものの大きさがまだ私には理解できていないからだ。この人がどれだけの重みに耐えているのか、まだ想像もつかない。
分け合えればいいと思っているけれど、私にできるのかさえ分からない。

……今思えば、これが年明けまで最後の束の間の平和だったかもしれない。
< 47 / 69 >

この作品をシェア

pagetop