腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
会場に来ていたお母さんが幕間に私を見つけると、ものすごい形相で駆け寄ってきた。
「あんな、その顔でご贔屓さんたちの前に出るつもりなん?」
「ちょっと泣いたけど、やばい?」
「ちょっとどころじゃないやろ」
お母さんがすぐに私の手を引く。

連れて来られたのは、家族向けに用意されていた控室だった。
「早う座って」
「私のことなんか誰も見てないって」
「よう言うわ」
お母さんがバッグからかなり大ぶりの化粧ポーチ……バニティポーチを出してくる。もしかして、私が泣かなくても、どこかで化粧を直してくれるつもりだったのかも。
「一番人気の御曹司の奥様の初披露やで。伏魔殿もびっくりや」
「え」
「左右之助にふさわしいか、品定めしたいご贔屓さんがウヨウヨしとる」
「うわあ」
「隙を見せたらあかんよ……まあ、あんたのことだから何も気にしてないとは思ったけどな」
震える私の肩を押さえつけケープがわりの風呂敷を首元に広げると、お母さんが手早くメークを直してくれる。

「ま、でも……そう心配せんでも良さそうやな」
お母さんがふふっと不敵に微笑んだ。
「左右之助、ええやないの」
「本当?」
「あんたもそう思ってるやろ」
「うん」
「誰を思って、あんな好きで好きでしょうがない顔ができたんやろな」
「え」
からかうように言われて、頬に熱が上がる。
「それって、……私のこと?」
「他に誰がおるん」
照れ臭くて口を金魚のようにパクパクさせていると、今度は何の衒いもない笑顔を向けられる。
「結局、役者の真価は芸に他ならないわ。そやろ?」
「……うん」
「今日の調子なら、内助の功も認めざるを得ないやろ……これでよしっと」
お母さんが遠巻きに私を見ると、急いで立ち上がる。

控室から出ると、左右七さんが私たちを待ち構えていた。
「客席にお戻りになるのは間に合いません。こちらへ」
私たちが控室に入るのを見て、時間を見計らって迎えにきくれたらしい。
七さんの案内で舞台袖から後半を見守ることになった。
「梅之丞さん、刀の吊り紐が落ちそうだよ」
「ああ、桜枝の若旦那。ありがとうございます」
背後でボソボソと言い合って、梅之丞さんが再び舞台に出ていった。こんなところから舞台を眺められるなんて、役者の家族は役得だなあ。

京の都からの迎えの船には、都からの恩赦を伝える役人の瀬尾が乗っている。演じているのは梅之丞さんだ。都に帰ることができると四人は歓喜に包まれるのだけれど──。
瀬尾は赦免状に名前がある俊寛と成経、そして康頼しか乗せられないと告げる。乗せてもらえない千鳥が、無念の思いを切々と告げるシーンだ。
『酷い鬼よ 鬼神よ 女子一人船に乗せたとて軽い船が重うはなるまいに』
もう生きていても仕方がないと岩に頭を打ち付けて死のうとする千鳥に、いてもたってもいられなくなった俊寛は、自分が残る代わりに千鳥を乗せてやってくれと懇願する。
ここで俊寛が瀬尾の刀を奪って切り付ける──
……はずなのに。
「ねえ、七さん」
「はい?」
「瀬尾役の……梅之丞さん、刀刺してなくない?」
私の言葉に、七さんの顔からサーっと血の気が失せていく。
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