腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
そうして迎えた、南座興行の最終日。
ひとまず舞台が跳ねて、この後は美芳で打ち上げをすることになっている。
駐車場まで私たちを見送りに来てくれたのは、なんと鴛桜師匠だった。どういうつもりでここまで来てくれたのか分からないまま車の前で佇んでいると、鴛桜師匠がニヤリと微笑んだ。
「一足先に行ってるからな」
「はい、すぐに僕たちも向かいます」
「……なんなら、このままシケ込んでもいいぞ」
「えっ!」

意図がわからず、左右之助さんと顔を見合わせる。
「いろいろと世話になったからな。打ち上げより、夫婦水いらずで過ごしてーだろ」
「でも、せっかくの両家の興行なのに、そう言うわけには……」
「いいんだよ。一番の立役者は日向子なんだから」
「……っ」
つまり、それは初日のことを言っているんだろう。
あれ以来、鴛桜師匠の態度が変わることはなかったから、初日のアドリブについて彼自身がどう考えているのかはまるで分からなかった。結局、あの演出は最終日までそのまま引き継いで、新演出だというテイでお舞台が続けられたのだ。
どう考えても真相には気づいているはずで、どこかのタイミングで何か言われるのではないかと思っていたたけれど──
ここに来てこんな風に労われるとは思わなくて……唖然としてしまう。

そんな私たちを前にして、鴛桜師匠はバツが悪そうに頭を掻いた。
「瀬尾の刀がないんなら、首を絞めてでも私が殺せば良かったさ」
その声音は自嘲するような色を帯びていた。
「初役の難役で、私もテンパってたかな」
「鴛桜師匠のほどの人でも、板に立てば緊張するんですね」
「当たり前だよ」
小さく笑って目尻に浮かんだ皺は、今は優しく感じられる。
「その緊張感をなくしたら役者おしまいだ」
「そう、ですね」
左右之助さんと交わした視線が虚空で交わる。

鴛桜師匠は、左右之助さんを役者として同等であり、同じ家を背負う覚悟を持った者として認めたのかもしれない。
「不肖の倅は鍛え直さなきゃいけねえな」
「はい」
「これからもよろしく頼むわ」
「こちらこそ」
しっかりと二人が握手を交わし、車に乗り込む。
「ああ、左右之助」
「はい?」
コンコンと窓を叩かれて、ウインドーを下げる。
「日向子をよろしくな」
「!」

「鴛桜師匠……」
ううん、そうじゃない。
「お、お父さん……」
「うん」
ウインドー越しに、鴛桜師匠が微笑む。
よかった──
左右之助さんの表情も、なんの曇りもなく晴れ晴れとしている。
名実ともに、左右之助さんはこれから御苑屋を代表し、御曹司として背負っていくんだ。
そして、私は師匠の娘として、両家をこれからも支えていく──
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