エリート弁護士は契約妻と愛を交わすまで諦めない
5

朔への気持ちを自覚してから、私の生活は何ら変わることはなかった。
仕事のある日は相変わらず朔は早起きで、頑張って起きて出社するのを見送り、朔が休みであれば、日用品の買い出しに出かけたり、のんびりと家で過ごす。
たまにお互いの観たい映画が被ったら観に行く。
今日もちょうど邦画で観たい作品があったので、ふたりで買い物がてら映画館に来ていた。
「なぁ、さっきの男誰?」
映画を観終わって、建物の外に出たところで朔が私の肩を突く。
「さっき?」
「俺がトイレ行ってる時に話してた男」
口がへの字になっている。
映画が終わった直後は面白かったなと機嫌がよかったのに、トイレから帰ってきたらすごく不機嫌になっているからおかしいと思ったら、それが原因だったらしい。
きっと、見知らぬ男に私が絡まれていたから心配してくれたのだろう。
「あー、杉本さん。前の会社の人。偶然、会って声をかけられただけよ」
「お前のことパワハラしてた奴か?」
「違うよ。……まぁミスをなすりつけられたけど」
「はぁ?」
朔の柳眉がぐっと寄って眉間に皺ができる。普段感情の起伏があまりないからこそ、凄まれるとかなり迫力が出る。
会社でのことを詳細に話していなかったから、彼としては寝耳に水なのだろう。私は上司からの暴言やら残業続きの過酷労働で身体を壊したとしか伝えていなかった。
杉本さんとのことも一から話さないと許されない空気に、私は書類の紛失事件を説明した。案の定、朔の眉間の皺がもっと濃くなっていく。
「なくしたくせに人のせいにするなんてクズもクズだな。今から戻って探し出して……」
「い、いや!そのことを謝ってくれたの!で、私は『もういいですよ』って言ったところで朔が帰ってきたら慌てて行っちゃった」
「俺にビビったんだろ。っていうか、お前許していいのかよ」
自分のことのように腹を立てて歯噛みする朔。私も声をかけられた時は、内心心臓がすくみ上がった。消え失せたと思っていたあの時の恐怖と憎悪がありありと思い出されたから。
「……そりゃ、多分一生忘れないと思うよ。私も忘れられるほど寛大じゃないからさ。それははっきり伝えた」
そう簡単に笑って水に流せるほどのお人好しでも善人でもない。本当に傷ついたし、苦しかった。今でも思い出すと胸が重く詰まる。
でも、それは杉本さんも同じ状況下にいて、あそこで部長に責め立てられる恐怖心に勝てなかった。私に罪を被せたくなる気持ちも少しは理解できる。
「このまま恨んでるのも私にとってプラスにならないと思ったの。……だから、許す。私のためにね。前に進みたいからさ」
暗闇の中で動けずにいた私を助け出してくれた幼馴染がいたから。今も隣で私が受けた仕打ちを自分のことのように憤り、心配してくれる味方がいるから、許すことに決めた。
私の決意を聞いて朔は瞠目し、怒りを呑み込んで微笑んだ。
「俺がいたら、完膚なきまでに言い負かせてやったのに」
「ふふ、杉本さん命拾いしたね」
「まったくだな」
笑いながら歩き出す。そして、自然と私の手を掬い上げて握る朔に、私は少しビクついた。
「怖いか?」
「ううん!ちょっとびっくりしただけ」
窺うように腰を少し折って顔を覗き込んでくるから、反射的に顔を逸らしてしまう。
本当に怖いわけではない。
し、心臓がもたない!
最近、私たちは外では手を繋いで歩いている。
私が朔と接触しても大丈夫になった頃、男性恐怖症を改善するために始めた。クリニックの先生もいい傾向だから徐々に慣らしていってみてはと提案されて、朔と話し合った結果が『手を繋いでみる』だった。
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