オスの家政夫、拾いました。3. 料理のガキ編
料理編-8章

「主任、今日も夜遅くまでいるんすか?」


声をかけられ、彩響はふと顔を上げ時計を確認した。時刻はもう9時を過ぎていて、周りの職員たちの姿もほぼ見当たらない。もう帰る支度を終えた佐藤くんが心配そうに聞いた。


「昨日も遅くまでいたんすよね?月末までまだちょっとあるし、明日に回してもいいんじゃないっすか?」

「…この録音データの書き起こしだけ終えて帰るよ。大丈夫、そんなかからないから」

「はい…。じゃ、お先に失礼します」

「お疲れさま」


佐藤くんはすっきりしない顔だったが、頭をぺこりとさげてオフィスを出た。寂寞としたオフィスの中で一人、彩響は椅子の背もたれに寄りかかった。
佐藤くんが言った通り、必ずしも夜勤しなくてはいけない程業務が溜まっているわけではない。しかし、誰もいない家に戻るのがどうしても気が進まない。林渡くんが仕事を辞めてからは、こうして遅くまでオフィスで時間を潰すのが日常になっていた。もちろん、ちゃんとした食事を取れるはずもない。

彩響は机の上に置いてあった紙袋に手を伸ばし、砂糖がたっぷりかけられたドーナツを取り出した。相変わらず美味しいけど、心の奥で罪悪感が波のように押し寄せてくる。週2回代理の家政夫が来てくれるし、お願いすれば何か作ってくれると思うけど、一人で食卓につくのが嫌で結局なにも頼んでいない。


(林渡くんがこんな姿見たら、きっとがっかりするんだろうな…)


ブブーン!


タイミングよくスマホが鳴った。彩響は急いでポケットからスマホを出し、画面を確認した。しかし表示されている名前は、期待していたものではなかった。


ー「いつまで無視するつもり?私はあなたのために色々と忠告してあげただけなのに、なんで怒るの?」


「はあ…」


長い溜息を吐いた彩響は、なにも弄らずそのままスマホを机の上に置いた。スマホはその後何回も鳴り続けた。もちろん発信者はすべて同一人物だった。


「いい加減電話に出なさい。なに意地はってるの?」

「あなたが私を怒らせるからいけないのよ」

「私だって大変なのよ。娘なら母のことを理解してあげるべきでしょう?」

「手はどうなったの?病院に行ったの?」

「会社で手のこと聞かれたら、適当に誤魔化しなさい。実の母がやったと言ったら、その娘のあなたも変に見られるから」

(娘のためとか言ってるけど、結局自分が他所でディスられるのが嫌なだけでしょう)


あの日ー母を招待したあの日以来、母からの電話には一切出ていない。数日間何十回も電話をしてきた母は、戦略を変えメールを送り始めた。内容はすべて娘を責めるだけで、謝罪の一言もない。彩響は鳴り続けるスマホを無視し、パソコンへ視線を戻した。

しばらくするともう連絡は来なくなったけど、彩響はこれ以上集中することができなかった。結局彩響はモニターから目を離し、引き出しを開けた。そして長い間光を浴びていない料理本たちの間から白い紙を取り出した。紙には大きい文字で「H調理専門学校入学申込書」と書いてあった。


(締め切り…そろそろだよね…)



あれだけ強い決心をしたのに、あれだけ応援して貰ったのに。もうすべてが面倒くさくなった。以前までは、少なくとも母が自分のことを心の奥からは否定しないという自信があった。少しくらいは、お金ではなく娘の気持ちを優先してくれると信じていた。しかしそれがすべて妄想に過ぎなかったことに気付いた瞬間、辛い人生でも自分を支えていた何かが粉々になった気がした。


ー産みの親からも愛されない、ただのクズ。

どうしても自分をそう思ってしまう。自分はなんの価値もない、ただのクズだ、情けない人間だ。そう思うのと同時に、胸が苦しくなってくる。

深く息を吸って、彩響は入学申込書を引き出しの中へ戻した。苦しいけど、死ぬ勇気もない。今はただ何か集中できることを探し、少しでもこの感情から逃げ出すことしかできなかった。その対象がまた仕事しかないという事実が余計悲しくなり、彩響はさらに溜息をついた。

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