若草淳がこの町に引っ越してきたのは、父親の転勤が決まった小学校六年生の春休みのことだった。

都会生まれ都会育ちの彼にとって、にぎやかな商店街がある駅前と長閑な畑や田んぼが連なる郊外の二つしかないこの田舎は、ちょっぴり退屈だった。

中学生になったら行きたい場所や、やりたいことが色々あったのに、こんな田舎では何もできやしないと半ばヤケクソ気味だった。

そんな春休み、中学校から編入する都合上、始業式前に母親と一緒に編入先の中学校を訪れた帰り道のことだった。

「母さん、俺少し町を見て歩きたいから先に帰っていていいよ」

「一人で大丈夫?」

心配そうに見つめる若草の母親にとって、淳はまだまだ幼い子どもだ。

「もう中学生だよ?それにここは、前に住んでいたところのような都会でもないし。大丈夫、じゃあね」

最近どうしてもあの母親の子どもを見るような言動が鬱陶しく感じてしまう若草は、できるだけ苛立ちを抑えてその場をサッと後にした。

中学校のある丘を下っていく坂道からは、ずっと遠くの山々までを見渡せる。

こんなに広い空を見るのは、若草にとって初めてのことだった。

坂道を下り、交差点を商店街の方に向かって曲がると、古いが活気の感じられる店の数々がひしめき合っていた。

若草は前に祖母が住んでいる田舎に遊びに行った時のことを思い出していた。

あの時見た駅前の商店街はどこも全てシャッターが閉じられていて、廃墟のようだった。

だから田舎の商店街というのはそういうものだと思っていたが、ここはどうやら違うらしい。

歩きながら店先を覗いてみると、どこの店もバラエティー豊かで魅力的だ。

歩いているうちに、通りに漂うパンの焼けた香ばしい香りに誘われて、いつしか若草は「パン田屋」というパン屋さんに足を踏み入れていた。