琥珀街の夜鹿

11 前夜

 夜鹿は、勤務時間という縛りがなければ研究室で一日を完結してしまいそうな真面目さを持っていたが、妊娠がわかってからは冷慈がそれをさせなかった。
 冷慈がいつから夜鹿の正式な上司に置き換わったかは、夜鹿さえわからなかった。配偶者を近い配置にしない世間の会社の仕組みと違うことは、かえって夜鹿を安心させた。
「明日でしょうか」
「そうだろう」
 育てている植物が実をつける時期も、いつしかわかるようになっていた。確かめるように冷慈に問う声が、迷子の子どものようであるのも気づいていた。
「いつになったって、目の前から子どもがいなくなるのは寂しいね」
 泣きたくなるこの気持ちを受け止めてくれる人が側にいなければ、夜鹿は仕事をやめていたに違いない。
 実をつけた植物が台車に乗せられて他部署に消えるのは、家畜が屠殺場に連れていかれるのを見送るようで、もっと夜鹿の心の深いところを抉る。相手は植物だと自分に言い聞かせるのは、もうだいぶ前にやめた。
「夜鹿が愛したからここまで育ったんだ。大丈夫、新しいところでも愛されているよ」
 冷慈が言う通り、夜鹿は会社の植物を子どものように愛してしまう。夜鹿がそういう子だからここに呼んだんだよと、冷慈がいつか話していたことがある。
 離れがたいように植木鉢をみつめていた夜鹿に、冷慈は優しく言う。
「今日の仕事はここまで。……けど」
 冷慈は先に腰を上げて夜鹿に手を差し伸べる。
「少し寄り道をして帰ろう」
 夜鹿は冷慈の手を借りて立ち上がると、問うように首を傾げた。
 冷慈が夜鹿を連れて行ったのは、会社の敷地の中にある小さな植物園だった。夜鹿の働く区域は薬品を扱うために一般の立ち入りが禁止されているが、その辺りは子どもが遊びに来ることがある。
 小さな街の、取り立てて前評判があるわけでもないささやかな箱庭。子どもの遊び場には向かないと思うのに、夜になるとどこからか子どもが訪れる。
 今日もそこでは、数人、小学生くらいの子どもたちが植物を見ていた。そのくらいの年なら大人も一緒に訪れるだろうが、いつも子どもたちは一人ずつ、迷い込むようにそこに現れる。
 夜鹿も小学生の頃、ここを訪れた。どういう経緯だったかは知らないが、夜鹿もまた一人で来たのを覚えている。
「この辺りの木はずっと変わりがないのだけど」
 冷慈が見上げる先には、柳のように青くしだれる木がそびえていた。夜になると亡霊のようで、少し怖い。
「夜鹿の背はずいぶん伸びた」
「もう大人ですから」
 隣に立って夜鹿が答えると、冷慈はふと笑った。
「冷慈さん?」
「そうだね。あの子たちは家に帰すけれど」
 冷慈は夜鹿の手をつかんで、存外に強い力で握りしめた。
「……夜鹿を帰す日は、もう来ない」
 瞬間、夜鹿は穴の開いた暗闇に引きずり込まれたような恐ろしさを感じた。
 幼い日、夜鹿は冷慈の袖をつかんだ。冷静な意思で伸ばしたわけではないその手は、つかんではいけないものをつかんだのかもしれないと、唐突に思う。
 帰してと叫ぶべきだったのかもしれない。いつそうすべきだったのかは、もう思い出せないけれど。
「明日、検査だね」
 母につながる唯一の手立ての携帯電話は、ずいぶん前に失くしたまま場所がわからなかった。
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