琥珀街の夜鹿

16 一つ

 退院から数か月が経ち、夜鹿はお世話になった医師に偶然出会った。
「お久しぶりです。お元気そうですね」
 そのとき、夜鹿は丘の上にある会社の分所の敷地内で仕事をしていた。そこは植木屋が併設されていて、医師はその客として来たようだった。
 夜鹿は木に当てた聴診器から耳を離すと、笑顔を見せて言った。
「ええ、もうすっかり。先生のおかげです」
「私は大した力添えをしたわけではありません。夜鹿さんの生命の力です。……おや」
 医師は近づいてくる軽やかな足音に目を細めた。夜鹿も振り向いてほほえむ。
「お母さん! お昼だよ」
 夜鹿の袖を引いて弾んだ声を上げるのは、園児ほどの男の子だった。冷慈によく似た涼しげな目元に、子どもらしい色づいた頬をしていた。
「今行くわ」
「早くね!」
 もっとも、はつらつと言葉を話し、ぱっと踵を返して走り去ったところは、じきに少年と呼ばれる年頃にも見えた。
 夜鹿が彼を産み、退院したのは数か月前のこと。夜鹿の知る子どもの成長と違ったとしても、彼に抱く愛おしさには何も変わりはない。
 医師はまぶしそうに少年の後ろ姿を見送って言う。
「……この街で子どもが育つのが見られるなんて。この閉ざされた世界で」
 彼らは夜鹿の知っている人とは、違う種であるだけだ。今は自分を取り囲む街の人々、同僚にさえ、愛おしさを覚えることができるようになった。
「ありがとう、夜鹿さん」
 医師は敬意を払うように頭を下げて、丘を下って行った。
 夜鹿は白衣を脱いで伸びをすると、午前の仕事にきりをつけて頂上に足を向ける。
 風の匂いはいつも同じで、灰に似た光の中で木々が揺れている。琥珀街に季節はなく、作りものめいた気候の良さに恵まれている。
 実際、木を司る会社の人々が、そのように琥珀街を作ったらしいと聞いた。彼らを神と呼ぶか、化け物と呼ぶか、それは彼らを愛するかで左右される。
 夜鹿は彼らの命の源の木の姿を、いつか見てみたいと思う。そのためには、今は夢中になって働いていたい。
 振り向けば自分を包み込んで形作る街の姿が見える。夜になればとろりと溶けるように輝き、どこにも行き難い思いにさせられる。
 夜鹿と、丘の上から冷慈が呼ぶ声が聞こえた。おいで、お昼にしよう。途中から笑い声になったのは、息子に飛びつかれたからのようだった。
 夜鹿は頬を上げて、まもなく抱きしめる存在に手を差し伸べた。
 琥珀街の一人の住民は、今日もありふれた幸せの中に生きている。
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