琥珀街の夜鹿

8 帰路

 茜色の雲が空に浮かぶ頃、夜鹿は少しいつもより早く帰路についた。
 夜鹿が勤める会社はさほど残業を必要としないものの、残務をこなしているうちに陽は暮れているのがいつものことだった。
 こんなに早く帰路につくのは学生のとき以来かもしれない。その頃、夜鹿の思い描いた未来はいくつかが叶って、叶わないものは意図的に忘れてしまった。
 一番大きなこと、研究者として働くことが叶ったのだから、そのときの自分は一応及第点を出してくれるだろう。けれどそのときの自分が今の夜鹿を見たら、確実に眉をひそめることもある。
 赤信号で立ち止まって、そっと腹部を押さえた。
 学生の頃、在学中に結婚した同級生がいた。結婚式のときにすでにお腹が大きかったから、たぶん授かり婚だった。今の時代、それも幸せの形だろう。
 けれど夜鹿はその結婚式以来、彼女と距離を置くことになった。他のどんなものよりお腹を庇っていた彼女は、もう自分の知っている友人ではなく、別の世界の存在に見えた。
 夜鹿もまた妊婦となって、宿った命に愛おしさを抱きながら、同じくらいに恐ろしさを感じた。
 その存在は、自分であって自分でないもの。この現代にと人は笑うかもしれないが、夜鹿はその存在に自分を、もしかしたら命さえも連れ去られそうに思う。
 赤信号をみつめたまま、呼吸がうまくできないでいた。たまらなく愛おしいのにどうしようもなく恐ろしい、自分が自分の中で分離してしまって、動けない。
 自分は母親になれないのだろうか。ずっと声を聞いていない気がする母に縋りたい思いで、立ちすくんだ。
「迎えに来たよ」
 夜鹿に声をかけたのは母ではなく、冷慈だった。
「どこかで立ち止まってると思って」
 私はこのひとに、どこか母の面影を見ている気がする。そう気づいたのは、出会ったときから彼が夜鹿に差し伸べてきた、柔らかい保護の手のせいのように思う。
 見上げればもう信号はとっくに青に変わっている。ただ交差点を渡る車も人もなく、そこには赤い陽だけが降りていた。
 沈んでいく夕陽の中で、夜鹿は体の横で手を握りしめながら告げる。
「……冷慈さん。子どもが生まれるまで、結婚は待ってもらえますか」
 夜鹿の言葉に、彼はなぜとも問いかけなかった。
 代わりに夜鹿の手を包んで、隣に並びながら言った。
「いいよ。……さ、帰ろう」
 また信号が点滅を始めていた。でも交差点には誰もいない。伸びた影を踏みながら二人、渡り始める。
 夜鹿は今日から、冷慈と同じ家で暮らし始める。
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