これが我が一族の能力〜鎌倉時代編〜
「(へぇーそんなことがねー)」


歴史が苦手な俺はそう言っていた。
それが何故、水城の一族を狙うのかがわからない。



『なぁ、なんでお前は水城を恨むんだ?』
「それはあとでわかる。見ているがいい」



再び俺の頭に映像が浮かぶ。



平家打倒を謀議して彼らは、成親は備前に流刑されたあと処刑。
西光は処刑、俊寛は喜界島に流された。
しかし、これには院勢力(成親・西光・俊寛ら)と平氏、寺院勢力(明雲・僧兵)が関わっていたのだ。


しかしこのあと、清盛は不運な出来事が待っていた。
1179年6月に盛子死去。
しかも清盛には相談もなく盛子の荘園没収。
その後重盛も死去し、越前を没収。
さらに法皇は、二十歳の基近ではなく8才の師家を中納言にしてしまう。
これに対し清盛はキレてしまい、クーデータを決行。
1179年11月14日。
豊明節会の日、数千騎の大軍を福原から上洛し八条殿へ。
翌15日、基房・師家解任。
正二位の基通が関白・内大臣氏長者に。
清盛の強硬姿勢に驚いた法皇は、使者を送り、政務に介入しないと申し入れした。
しかし清盛は、反平氏的とされた、39名の公卿・院近臣を全て解任。
変わりに親平氏的な公家を任命さた。
その後、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉するなどしてしまう。
そして、これは反平氏を生み出すきっかけになってしまった。


『なんつーか、清盛。アンタの気持ちもわからなくはないがやりすぎじゃないか?』



何も平家に反抗してた奴みんなを解任しなくても。



『うるさい!!我とてわかっておる。今ならわかる、あれはやりすぎていたと。しかし、当時はそれでいいと思っていたのじゃ!一族の為、平家の為と。我は確かにあの女には恨みはない!』
『清盛……?』
「しかし、すまぬ!我は水城家に復讐せねば気がすまぬ」
『っっ!うわぁーっ清盛っ何を』



頼むから水城に何もしないでくれ。
頼むから……。
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