まるで景色が、流れていくみたいに、一人抱き上げたままなんて嘘みたいに、風のように一人の騎士が王都を駆け抜ける。
 王都を歩く人々は、何事かと視線をそちらに向けるが、抱き上げられている人間の姿は、妙に印象に残らず、赤みを帯びた薄茶色の髪をした騎士だけがその記憶に残った。

「あんたの爪、紫色だな?」
「――――魔法薬の在庫が残り少ないから、朝から作っていたので染まっちゃいました」
「そうか……。本当に在庫は、なかったんだな。乱暴な対応をして、申し訳なかった」

 エレナは首をかしげる。王立騎士団の規律は厳しく、完璧な礼儀を求められる騎士団員にしては、この騎士は自由な印象が強い。

 馬車を追い越した騎士が、エレナを抱え、片手に魔法薬の瓶をつかんだまま、高い塀に足をかけると、軽々と飛び越えた。着地の衝撃を恐れて、目を瞑ったエレナだったが、トンッと軽い音だけで、いつまでもその衝撃が訪れることはない。

「――――おい、ジャン・リドニック! 飛び出していったと聞いたが、問題を起こしていないだろうな?!」

 白髪交じりの金髪に、冷ややかなグレーの瞳をした壮年の騎士が、ジャンと呼ばれた騎士を咎めるように呼び止めた。

「ん……。誰を抱き上げている? どこから攫ってきた」
「攫ってない! ……合意の元だ」

 先ほどの出来事が、エレナの脳裏をよぎって消えていった。
 やっぱり、その判断が正しかったのだと、エレナは小さくため息をつく。

(ですよね。誘拐は未遂で終わりました。リドニック卿は悪い人では、なさそうですし)

「リドニック卿、降ろしていただけますか?」

 先ほどまでの対応が、嘘みたいに、優雅な所作でエレナをおろしたリドニックが、まるで貴族令嬢を前にした騎士のように、膝をついた。

「……急な訪問をお許しください。魔術師ギルド職員、エレナと申します。リドニック卿の依頼を受け、解毒の魔法薬の納品に参りました。ただ、魔法薬は作ったばかりで計量もしていません。訪問の許可をいただけますか?」

 平民であるエレナには、名字がない。

(リドニック卿は、自由に見えたのに貴族だったのね)

 確かに、なぜか跪いて平民のエレナに敬意を表しているリドニックは、誰が見たって貴族の気品を感じるだろう。