懐かない猫の一途な恋

1 桜の額縁

 ひらひら花が舞っている。
 熱帯魚のようにけだるげに歩いていく大学生たちを背景に、桃色の花びらは踊るように天から降り注ぐ。
 この季節は何枚も桜の絵を描く。
 四月の主役は、桜だもの。どんな花も風景も、この季節の桜に敵いはしない。
 この春入学した大学の構内にある銅像の下に座って、桃色の花びらに心を躍らせながらキャンバスに筆を走らせる。
 ふいに予鈴が鳴り出す。私はむすっとしながら筆を止めた。
 絵を描くことは大好きだけど、大学に通わせてもらっているのだから授業は出なければいけない。まだまだ絵を描いていたくとも、時間は時間だ。
 ぴょんと立ちあがってキャンバスを折りたたむ。バッグを肩にひっかけると、地面に落として忘れかけていたミュールを履いた。
 歩きながら、首の横から零れる髪に桜の花びらがひっかかっているのに気づいた。
 それがまるで勲章のような気がして、花びらに頬を寄せて笑った。




「お人形さんみたいだね」
 というのは、私を見た人がたいてい最初に口にする印象。
 その日、新入生歓迎コンパで私を見た女の子たちも、口々にそう言った。
 小柄で、腰まである淡い茶色の猫毛と、大きな目、そして無表情がそう思わせるらしい。
伊吹(いぶき)君見た? 見た?」
「見た! かっこいいよね!」
「あたし今度構内通ってるの見たら絶対撮る!」
 このクラスコンパも、強制参加でなければ来るつもりはなかった。
 私は口下手で、ずれた子だとずっと言われてきた。私が考えていることといえばほとんど絵のことばかりで、女の子たちが話すおしゃれとか男の子のこととかはまるで興味がなかったから。
 だから最初は私の人形めいた容姿に気を引かれて集まって来た女の子たちも、すぐに私に興味を失って話の輪を形成していく。
 寂しくはない。友だちなんて、ちょっとでいい。
 皆の輪から離れて隅っこの方に移動する。
 シートが有り余っているところまで来ると、そこで足を投げ出して空を仰いだ。
 お花見コンパなのに、皆桜の花をどうして見ないのだろう。この季節で一番綺麗な花がこうして視界を覆ってくれるのに、それにため息をついて見惚れることがないのはどうして?
 月が出ていて、この大学近くの公園をひっそりと照らしだしていた。それだけで十分桜の色を引き立たせて、世界を飾ってくれる。
 月に照らされた桜の色を、どうやって作ろうかな。そんなことを考えながら、私はずいぶん長いこと足を投げ出していた。
「ねえ、これ食べていい?」
 ふいに隣で声が聞こえて、私は振り向く。
 そこにあぐらをかいて座っていたのは同い年くらいの男の子だった。細身で柔らかそうな癖毛の茶髪をしていて、優しい目元をした子だった。
 私は彼が指さした先を目で追うと、そこには皆から忘れられたノンアルコールの缶とお花見のために取られた宅配のお寿司があった。
「いいと思うよ。みんなはあっちにいるし、私は食べないから」
「そっか。じゃあいただきます」
 男の子なのは間違いないけど、ちょっとかわいい子だった。
 彼は素早くお寿司を数個お腹に収めてから、私の方をくるりと向く。
「クラス同じだよね。名前なんていうの?」
和泉(いずみ)(れい)
 物珍しさで私に話しかけてくる男の子もいる。私はそういう時のためにいつもするように、名前だけを簡単に答えた。
「変わった名字だね。和泉って呼んでいい?」
「どうぞ」
「俺は笹本(ささもと)優希(ゆうき)。何とでも呼んで」
「うん」
 そっけなくうなずくと、笹本はうなずき返して言った。
「和泉は桜を見に来たんだね。さっきからじっと見てる」
「話に入るのは苦手だし、私は花が好きだから」
「風流だなぁ。俺は食い物しか見てなかったよ」
 笹本はくすくすと笑う。あまり男くさくない、綺麗な笑い方だった。
「この季節は桜が主役なのに、みんな桜を見ないでお酒ばっかり飲んでる」
「そうだね」
 私がため息をつきながら言った言葉に、ぽんとボールを優しく投げ返すように笹本は相槌を打った。
「桜に失礼だね。まあ俺も失礼な人間の一人だけど」
 笹本の声は聞き心地がいい。口調が穏やかだからか、彼の顔立ちが優しげだからかはわからないけど、とにかく私は不思議な思いがした。
 私は男の子が嫌い。ずっと女子校だったから交流自体なかったし、たまに電車で見かける男の子はうるさい声で話す子ばかりだったから。
「お酒、そんなにおいしいのかな。私ちょっと飲んだけど、苦くて駄目だった」
「そうだね。俺も最初飲んだ時はそう思ったよ」
 まただと思う。彼の相槌のつき方は、優しいのだ。
「和泉は自然が好きなんだな。桜以外は何が好きなの?」
「あじさい」
「ああ、雨が降ると綺麗だね。俺の高校にもあったけど、水やらなくていいくらい雨ですくすく育ってたよ」
 男の子が花の話など面白くも何ともないだろうに、彼は相槌を打つのをやめない。
「家で花を育てたりしてるの?」
「うん」
「どんな花?」
「今はチューリップ」
「庭、けっこう広いの?」
「そんなに。でも季節ごとに変えればけっこう使えるから」
 話すのが下手な私に代わって話題を提供しながら、彼は肩の力を抜いた様子で食事を口に運んでいる。
「俺は一人暮らしだから庭ないんだ。でもきっと庭があっても花を育てようとか考えないだろうな。土いじりはほとんどしたことないんだ。難しい?」
「さあ、覚えてない。小さい頃からやってたから」
「鑑賞植物なんかはほとんど世話要らずで育つっていうけど、そういうのは育てないの?」
「水やりながら育てるのが好きだから」
「そっか。育てるのが楽しみなら、手間はかかった方がいいもんね」
 柔らかく笑いながらうなずく笹本は、何だか春のあの花に似ていた。
「……花」
「うん?」
「笹本は、花に似てる」
 笹本は首をかしげて問いかける。
「何の花?」
「花といえば、あれ」
 私は頭上の桜を指さす。
「どうして?」
「どうしてだろう」
 はっきりと根拠があるわけじゃなかった。ただ、彼の印象は桜だった。
 桜が放つ温かみのある光を、彼も持っている気がした。
 笹本は驚いたように大きな目を瞬かせて、次いで柔らかく微笑んだ。
「ずいぶん綺麗なものにたとえてもらったな。ありがとう」
「笹本は」
 ふいに私は彼に問いかけてみたくなった。
「どうして向こうで話さないの?」
「向こうって?」
「あっちで話の輪ができてる。私は桜ばかり見てる変人だから、お酒の共として楽しくない」
「楽しいよ」
 くしゃっと笑って、笹本は続ける。
「和泉はちゃんと俺が質問したら答えてくれる。素直に、ていねいに」
「でも向こうはもっと楽しい」
「俺、たくさん食べられる場所の方が好きだな」
 一皿分のお寿司を平らげて、笹本は周りの食い散らされた皿の上の物をすべて片付ける勢いで手を伸ばす。
 男の子としては小柄で華奢なのに、どこにそんなに収まるのだろうか。私は彼の体の構造が不思議でならなかった。
「それに俺、ちゃんと一対一で話せる友達がほしいよ。あっちは盛り上がってるけど、話すっていう雰囲気じゃないから」
「友達?」
「うん。俺と友達になろうよ」
 淡い茶色の瞳を向けて、笹本は首を傾げる。それはかわいらしくも感じられる仕草だった。
「笹本は友達がたくさんいそう」
「少ないよ。友だちはちょっとでいいと思う」
 それはおんなじだと、私は思った。
「和泉は友達いらない?」
 顔立ちも整っているし話上手だからモテそうだ。隅で桜を見ている女の子に声をかけている暇などなさそうなのに。
「ちょっとでいいけど、友だちは大事」
「よかった」
 ほっとしたように笑う理由がわからない。
 でも彼と話しているのは心地いい。彼は他の子のように、絵や花のことばかり考えている私に、変な顔をしなかったから。
「笹本は彼女いる?」
 ふいに口にした質問は、純粋な興味だった。決して、それ以上の意味はなかった……と思う。
「うん。いるよ」
 それに少し残念だと感じたのは、きっと気のせいだっただろう。
 彼はすんなりとうなずいて携帯を取り出す。
「見る?」
「うん」
 笹本は携帯を操作して一枚の写真を表示させる。
 そこに映っていた女の子を見た途端……私は今までの自分の言動を後悔した。
「……ごめんね」
「え?」
「帰る」
 呼び止める声を無視して、私はバッグを持つなり立ちあがった。
 桜並木を通り過ぎながら、私は笹本との会話を思い出して唇を噛んだ。
 彼は、好意を抱いてはいけない人だった。
 だけどもう会う機会もないだろうと思って、私は帰路を早足で辿っていた。






 マンションに着くと、私は一息ついてから扉を開けた。
 玄関に入るとすぐに、ミュールをはいたまま廊下に女の子が横たわっている。
葉月(はづき)。ここで寝ちゃ駄目だってば」
 私は彼女のミュールを脱がせてから、彼女の肩を支えるように腕を回す。
「起きて、葉月。すぐご飯作るから」
「うー……」
 うめき声を上げながら彼女は何かを探すように腕を伸ばす。
「……れいちゃん。れいちゃんだぁ……おかえり」
 私の首に腕を回して、彼女はぎゅうっと抱きしめてくる。
「はいはい。起きてね、葉月。私じゃ葉月は抱っこできないから」
「うん……」
 肩を貸して何とかリビングまで葉月を歩かせると、私はそこのソファーに彼女を寝かせる。
 それから棚から化粧落としを取って戻ってくる。肌を傷めてはいけないので時間をかけて丁寧に彼女の顔を拭った。
「おかずは朝作っておいた分があるから。それ温めたのでいい?」
「れいちゃんのレモネードが飲みたい……」
「だめ。それは休日までおあずけって言ったでしょ」
 私はキッチンに入っておかずとご飯、スープを温める。それから器に盛ってトレイに全部乗せてからリビングに戻って来た。
「れいちゃん。ご飯の前に着替え」
「わかった」
 私は葉月にばんざいをさせて上のカットソーを脱がせてからジッパーを下ろしてスカートを下ろし、ブラを外してやってからパジャマを着せる。
「さあ、召し上がれ」
 晴れてパジャマになった葉月の髪を上で軽くまとめてやってから、私はトレイを前に出した。
「いただきまーす」
 葉月が食べ始めるのを、私は側で見守った。
 幼馴染の姫宮(ひめみや)葉月とは高校の頃から一緒に暮らしているけど、ずっとこんな感じだ。
 彼女は料理ができないどころではなく、着替えることすら面倒くさがる。掃除は一切しないし、お風呂でさえ私が無理やり入れないと何日もそのままだ。
 けど私は彼女の世話を焼くのに抵抗を感じたことは一度もなかった。
「おいしーい」
 どんな花よりも綺麗に、葉月は笑う。葉月の寝顔はどんな動物よりかわいい。葉月がいる風景は、私には描けないほど光に満ちている。
 長い黒髪に扇状の睫毛に覆われた潤んだ瞳を持つ葉月は、幼い頃から私にとって一番美しい存在だった。
「れいちゃん。コンパで何か嫌なことがあったの?」
 そして葉月は私のことを誰よりも理解してくれる子でもあった。
「そう?」
「うん。男の子にまたいじめられたの?」
 私の変化を敏感に感じ取って、誰よりも早く私を心配した。
「れいちゃんをいじめる奴は私が追い払う」
 実際何度も私を助けてくれた葉月は、口の端にトマトソースをつけたまま真剣な顔で言ってくる。
「違うよ」
 私はティッシュで葉月の口を拭いながら笑った。
「ちょっと疲れただけ。ねえ、葉月は昔みたいに私を庇っちゃ駄目だよ。怪我でもしたらどうするの」
 葉月は美容師学校に通いながらモデルをしている。テレビにも出る、光の世界の住人だった。
「そう? れいちゃん。私に遠慮なんてしないでね」
「うん」
 こくりとうなずくと、葉月はまた食事に戻る。
 私はその横顔を隣でみつめながら、そっと問いかける。
「そういえば、葉月」
「なぁに?」
「葉月は、お付き合いしてる人はいるの?」
 葉月は食事の手を止めて振り向く。
「いるよ。どうして?」
「今まで訊いたことなかったなって。いつから?」
「高校の時から」
「どんな人?」
 少し葉月はためらってから、ぽつりと答える。
「優しい人かな」
 私は微笑んで目を伏せる。
 笹本が見せた写真に映っていたのは、この葉月だった。
「紹介しようか?」
「ううん。いい」
 写真を見た時に思った。
 親友の彼氏が気になったなんて、馬鹿だなって。
 この気持ちは誰にも伝えないまま、春のうちに散らせてしまわないと。そう心でつぶやいた。
 








 日曜日には、私は電車で一駅分の距離にある実家に帰ることにしている。
「おかえり、零」
 それが私の親代わりである伯父、和泉雅人(まさと)との約束だから。
「朝ご飯はこれから?」
「ううん。食べてきた」
「私はこれからだから、少し待っててくれ」
 伯父は私をリビングに通して、自分はキッチンに足を運ぶ。
 独身で一人暮らしの伯父のマンションには、庭に色とりどりの花が咲いている。私は窓に手をつけてそれをじっと見てから、キャンバスに鉛筆で描き始めた。
「大学はどうだ?」
「楽しい。桜並木がきれいなの」
 テーブルで朝食を取る伯父の足元のじゅうたんに寝そべって、ぽつぽつと話をしながら絵を描く。
「校舎も雰囲気があって好き。描いた」
「そうか。後で見せてくれ」
「うん」
 今日の伯父は清潔感のあるベージュのカッターとスラックスを合わせていた。
 癖のない黒髪に切れ長の黒い目をしていて、端正な目鼻立ちをしている伯父は幼い頃から私の自慢だった。
 紳士を作るには三代かかるというけれど、伯父は一代で紳士になった人だと思う。物腰が優雅な彼は、学校で女の子たちが話しているような中年の男の汚さがどこにもない。
「おじさんのお仕事は?」
「休日に仕事の話なんてよしてくれ。零が聞いて楽しいようなことはないよ」
 伯父は有名な国立大学を首席で出てアメリカのビジネススクールを卒業したエリートだ。彼は仕事の話はほとんどしないから詳しいことは知らないけど、金融関係の仕事をしていているらしい。
 朝食を終えた伯父はキッチンに食器を片づけてくると、じゅうたんに座り込んで私を膝に乗せた。
「重くない?」
「零は軽い」
 未だに中学生に間違えられる私は、長身の伯父の膝に乗ってもすっぽりその胸に収まってしまう。
「また髪をほったらかして」
「ちゃんと洗ってるよ。勝手に癖がついちゃうの」
「毎日梳かさないと駄目だろう? まったく」
 伯父は櫛を取って私の腰まである髪を梳く。
 私は猫がブラッシングされるように、大人しく目を閉じていた。
 私の本質は猫に近いのかもしれない。ここに伯父と一緒に暮らしていた頃から、私は伯父が帰ってくるとひたすら伯父にくっついて甘えていた。
 遊んでほしいのかと笑う伯父に、好きにさせといてと口をとがらせた。伯父はいつも笑って、困った子だねと頭をなでてくれた。
 昼になったらベランダでランチを取って、伯父は私を外に連れ出した。
 道行く女の人がちらりと伯父を見るたび、私は弾んだ気持ちでいた。
「今日はここにしよう」
 伯父は高級ブティックの並ぶ一角にある店を指して先にそこに入って行く。
「このカットソーにはこちらのスカートが素敵です」
「ああ。じゃあそれと、あとそっちのミュールでSサイズのものを」
 彼は店員を呼んであれこれと相談しながら私の着せ替えを始める。
 伯父がお金持ちなのは知っているけど、彼自身は高級車を買ったりすることもなくマンションもほどほどの所に住んでいる。
 けれど伯父は私を着せ替え人形にすることが好きだから、仕方なく人形になりきることに決めていた。
「零はどれが欲しい?」
「特にない。服も靴も足りてる」
 伯父は私がうっかり「あれがかわいい」などと言うと値札もついていないようなものを買ってしまう。
 自分の欲しいものを買えばいいのに、姪なんかにお金をかけたりして。そんな思いを未だに捨てきれないから、私はつい憮然として言う。
「そう拗ねるな。私の楽しみなんだよ」
 私の頭を撫でて苦笑する伯父を見ると、私は今日も抵抗できないまま全身コーディネイトされてしまった。
 夕方になると伯父が仕事で知ったというイタリアンレストランへ入った。表に看板が出ていない、けれど格式の高そうな所だった。
 そこで乾杯をしてから、私は伯父にスケッチブックを渡した。
「これは教室の様子か。こっちは学校の前の川かな。よく描けてる」
 私は口で説明するのが苦手だから、描いたものを見せることでここ一週間のことを伯父に報告することにしていた。
「桜が多いね。……おや」
 ふいに伯父は一枚の絵で目を止めて私にそれを示した。
「これは描きかけなのかな? 中央が空白で……桜が額縁になってるみたいだ」
 私はどきっしてその絵から目をそらした。
 その絵は桜で囲むようにして中心を空白にした鉛筆画だった。桜は陰影が濃く、描こうとした時が夜であることを教えてくる。
 この夜桜の景色は、花のような人を中心にイメージして描いた。けど、結局描けなくて空白にしていた。
「……夜空を描こうとしたの」
「ふうん」
 伯父はそれで納得したようで、またパラパラとスケッチブックをめくる。
 抑えた明かりの中に伯父の端正な顔立ちが浮かび上がるのを見ながら、私はふいに伯父を呼んでいた。
「おじさん」
「ん?」
「私、男の子嫌い」
 幼い頃から繰り返してきた言葉を、私はむくれながら口にした。
「乱暴な言葉遣いするし、うるさいし。私のこと変な子だって馬鹿にするし。落ち着きがない」
「そうだね」
 伯父の相槌の打ち方に、私は一瞬呼吸を止める。
 笹本の声が、伯父の優しい相槌に重なった気がした。
「男の子はそうだ。でも、零。男の子は変わるよ。大人の男になれば、年相応の落ち着きも優しい言葉づかいも覚える」
 私は目を泳がせて尋ねる。
「二十年くらいしたら、おじさんみたいになる男の子もいる?」
――れいね、おおきくなったらパパとけっこんする。
 幼い頃は彼のことを父親だと思っていて、私はそんなことを言っていた。
 実際、今になっても私の身の回りで伯父よりかっこいいと思える男の人はいない。
「どうだろう。私は四十年かけて自分を磨いてきたから。そう簡単に零と同い年の男の子に負ける気はしないね」
 自信に満ちた声でそう言ってから、伯父はくすりと笑う。
「でもね、零。若いからこそ魅力的な男の子も、きっといると思うよ」
「私、そんな子見たことない」
「本当に?」
 伯父の瞳が一瞬私の心の内を見透かすように細められたから、私はびくりとした。
「ごめんごめん」
 伯父は手を伸ばして私の頭を撫でると、今度は優しく微笑んだ。
「けど零が興味を持っても持たなくても……お前に興味を持つ子は、必ず出てくるよ。私が十八年間育てた子だから、惹かれないはずがない」
「ずいぶん自信があるんだね」
「あるよ。私の零だから」
 ためらうことなく言い切って、伯父は頬杖をつく。
「お前がどんな男に興味を示すのかは気になるけど、私はどんな男でも気にいらないだろうな。零に釣り合うような男がいるだろうか」
「私、興味ない」
「さて、そう言っている内にすぐ男を連れてくるのが娘と聞くから。困ったものだ」
 伯父はやれやれと首を横に振った。
「桜か」
 開いたままの桜の絵を見ながら、彼は密やかに笑って、元のように食事を再開した。







 月曜日に大学に行って、朝から桜の絵の続きを描いていた。
 絵の具で桃色の輪郭を丁寧になぞる。それは葉月のメイクをする時に似ていた。
 今朝、この季節に合わせて桃色のグロスをつける私に、葉月は目を閉じながら頬を上げた。
――私が綺麗なのは、れいちゃんがつけてくれるからよ。
 葉月の桃色の唇がますます艶やかになったのを満足げに見ている私に、彼女は笑って私の手からグロスを取った。
――次、私の番。おそろいにするの。
 葉月は私の肩を押さえて座らせると、膝が触れあう場所に自分も座った。
――口、少し開けて。
 子どもをあやすように、葉月は私の顎をそっと掴む。
 涼やかな目元でありながら潤んだ瞳が鮮やかな葉月は、その目を真剣に私の唇に集中させてグロスを引く。
――できた。
 知らず少し肩を緊張させていた私は、にっこりと笑った葉月にようやく少し笑い返した。
 その時のことを思い返しながら丁寧に桜の絵に色をつける。
 ふと見上げた先の桜は、金曜日の夜の新歓コンパの時とは違って、明るい光に映えていた。
 明日には雨が降るというから、この満開の桜が見れるのも今日まで。だからしっかりとこの目に焼き付けておきたかった。
 ああ、眩しい。
 終わって行くものだとわかっていながら、桜はなんて優しく輝くんだろう。
 予鈴が鳴る。私はスケッチブックを片づけると、教室に入って行った。
 席について授業を待つ。クラスの皆は新歓コンパで仲良くなったらしく、あちこちで話の輪を作っていた。
「和泉」
 ふいに影が出来たかと思うと、私の隣の席にすとんと腰を下ろした男の子がいた。
 猫毛の淡い茶髪に優しい目元。大きな栗色の瞳が通路を挟んだ向こうから私を見ていた。
「……笹本」
 器に一滴の水を落とすような声を、私は出していたと思う。
「和泉ってモデルのはーちゃん嫌い?」
 葉月はファンの皆から、はーちゃんという愛称で呼ばれている。
「俺の彼女、はーちゃんに似てるって言われるから。金曜日、写真見た途端帰っちゃっただろ?」
 私はぷいと横を向いて言った。
「失礼だった。ごめん」
 無骨な言い方しかできない自分が、ちょっと恥ずかしかった。
 でも笹本は怒るでもなく、そこに座ったまま言った。
「俺が和泉だったら軽蔑するよ。彼女がいるのに友だちになってほしいなんて、都合がよすぎる」
 私はぴたりと止まった。意識が研ぎ澄まされて、振り向けない。
「でも、ごめんね。俺、これからも和泉に話しかける」
 優しい声なのに、どうしてか強引に耳に残る言葉だった。
 伯父に似ていると思ったのに、そこにあるのは伯父のような優しさだけじゃない。
 私の知らないところに引っ張られる予感と、動き出してしまった確信。
 けれどこのままさよならするのは、もうできない気がした。
「覚えておいて、和泉」
 柔らかく笑いながら私をみつめる笹本は、私が今まで見たことがない男の子だった。
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