懐かない猫の一途な恋

4 紅葉のうつろい(後編)



 月曜日の授業が終わった後、私は講堂に向かった。
 講堂の舞台は日常的に「アース」の演技練習の場に使われているけど、私は裏方としてサークル部屋で作業することがほとんどだったから、出入りすることは少ない。
 私が入った時、大体十人ほどのメンバーがいた。伊吹が舞台で台詞合わせをしていて、笹本は先輩と大道具の配置について話しているようだった。
「先輩」
 私は部長の手が空いた時を見計らって声をかけることにした。
「突然で申し訳ないのですが、サークルをやめさせてください」
 封筒から退部届を取り出して、私は部長に手渡す。
「忙しくなった? うちのサークル、負担大きいからね」
 部長は慣れているように、少し冷めた様子で返す。
「まあやめたいなら止めないよ。笹本、ちょっと」
 ちょうどこちらを見ていた笹本が、部長に呼ばれて近付いてくる。
「はい?」
「正規大道具メンバー、また笹本一人になるけどがんばれよ」
 笹本は怪訝な顔をして私に向きなおる。
「突然どうしたの?」
 私は考えてきた理由を答えることにした。
「元々お手伝いの予定だったから。九瀬君と輪島さんが手伝いにきてくれるようになったし、もう私がいなくても何とかなると思って」
「そうじゃなくて。部長、とりあえずそれの受理待ってください。俺から話をしますから」
 笹本は部長から掠め取るようにして私の退部届を奪うと、私を舞台裏の端に引っ張ってくる。
「絵を描くの、楽しくなかった?」
「それとこれとは関係ないの」
「じゃあちゃんと理由を聞かせてよ」
 穏やかだけど少し強引に、笹本は問いかける。
「手が足りるようになったから」
「それは和泉がやめる理由にはならない。嘘つかないで。わかるから」
「……嘘じゃない」
「何か困ってるなら相談に乗るよ。とりあえずちょっと考えよう?」
 私は頷きたかった。うん、そうすると答えて、笹本のいつもの優しい微笑みが見たかった。
「なんで笹本にそんなこと言われなきゃいけないの」
 けれど私は心に決めていた言葉を、自分を奮い立たせて口にしていた。
「じゃあ言うけど。私は絵もこのサークルも好きだよ。嫌いなのは……」
 私はごくっと息を飲む。言葉が喉に突っかかって出て来なかった。
 笹本の薄茶の大きな目を見ていたら、たまらなく苦しくなってしまった。
「だいたい、笹本は何なの」
 体の横で手をぎゅっと握りしめて、私は憮然とした調子で切り出す。
「誰にでもにこにこして、暇があれば女の子の機嫌取ったりして。目の前の人と話す気あるの? それって話す態度として最低だよ。八方美人とか浮気どころじゃないよ」
 笹本は瞠目して私を見ている。私は今にも笹本が怒りだすんじゃないかと思いながら、でもそれでいいと思って続ける。
「彼女がつれないっていうけど、それだって笹本が悪いんじゃないか。女の子なら誰でも優しくて、叔母さんにべったりで、他の女の子とキスなんてするから」
 周りにはサークルのメンバーがたくさんいる。みんなそれぞれの作業をしながら、どこかで私たちの会話を聞いている。
 私の酷い悪口に気づく。そしてそれを聞かれたくないと、笹本だって思うはずだ。
 けれど笹本は私を見据えたまま動かない。もう笑ってはいないけど、怒りだす気配もない。
「悪戯で、私が叔母さんと食事するのを邪魔するし。迷惑だってわからないの?」
 それでは困る。私のことを嫌な奴だと思わせなければいけない。
「やめるのは、笹本と顔合わせたくないからだよ」
 握りしめた手がしびれている。頭ががんがんと痛む。目の奥が熱かった。
「だって、笹本がだいきら……」
 必死で放とうとした言葉が、唐突に途切れた。
「もういい」
 私の顔が大きな手で覆われる。目の前が遮られて、口も抑えられる。
「わかっただろ」
 伊吹の低い声が真上で聞こえた。
「……お前が全部悪い、笹本」
 吐き捨てるように告げて、伊吹は踵を返した。
 私の顔を覆ったまま、伊吹は私を抱えるようにして外に引っ張っていく。
「和泉、もう誰も見てない。手を開け!」
 裏口から講堂の外に出た途端、伊吹は私の手を無理やり開かせる。
 ガチガチに強張っていて、私自身でも手を開くことが難しかった。
「この馬鹿……」
 やっと開いた手のひらには血がにじんでいた。私より見ている伊吹の方が痛そうに顔をしかめる。
「なんであんなことを言った」
 私の手をつかんだまま、伊吹が問う。 
「仕方ないんだ。葉月だけは、失いたくないんだ」
 私には伊吹がどんな顔をしているのかわからなかった。呆然としていて、周囲が全部分厚い膜で覆われているように実感がなかった。
「なんで傷つけるようなことを言った?」
「笹本には……悪いと思ってる」
「笹本なんてどっちでもいい!」
 伊吹は声を荒げて、私の肩を揺さぶった。
「言ったお前が、一番、傷ついてるだろうが!」
 私の中で、限界まで張っていた糸が切れたような気がした。
「う……っ!」
 ぽたぽたっと、地面に染みができる。拭っても拭っても、目から溢れてくる。
「葉月だけは、駄目なんだ……! 葉月をなくしたら、生きていけない……!」
 いつも一緒。一番綺麗で、一番大好きな葉月。
「葉月にだけは、嫌いは嫌……一緒じゃない、もっと嫌……何でもする」
 自分でも何を言っているのかわからないくらい、めちゃくちゃに言葉を並べたてる。
「葉月がいてくれれば、それでいい……他はいい。いいんだ……」
 私は私にとって一番いい選択をしたはずだ。
 笹本との関係を完全に絶つために、二度と私になんて優しくしないくらい、酷く傷つけてしまえばいい。簡単なことだ。
 人から見れば不格好で愚かに見える方法だけど、これぐらいしか私には思いつかなかったのだ。
「嫌われたくないよ……」
 真っ赤になるくらい目を擦っているのに、涙はちっとも止まってくれなかった。
 葉月がいればそれでいい。他なんていらない。他にどう思われたっていい。
 ……そう思っていたはずなのに。
「葉月にも……笹本にも、嫌われたくない……よ……」
 いつからこんなに贅沢になってしまったんだろうか。
 私の世界には葉月と伯父しかいなかったはずなのに、笹本に嫌われると思うだけで息が苦しくなるなんて。
「……和泉」
 伊吹が、私の顔を胸に押しつけた。
「お前は悪くない」
「わるい……よ。私じゃなくて、他に誰が悪いっていうの」
 人前で笹本の悪口を言って、傷つけた。親友が大切にしている彼氏のことを好きになった。
 全部、私のせいだ。
「言っただろ。悪いのは笹本だ」
 伊吹はきっぱりと言い切る。
「お前を追い詰めて、傷つくようなことを言わせて、泣かせたのはあいつだ」
 服が汚れると思って顔を離そうとした私を、伊吹はもう一度胸におしつけた。
「あいつが憎い。これ以上嫌いになれないと思っていたが、今度こそ上がないくらい大嫌いになった。だから」
 伊吹の低い声が苦手だったはずなのに、今は包み込むように優しく感じていた。
「俺がお前の分までめいっぱい笹本を嫌ってやるから。……お前はもう、笹本を好きでいろよ」
 私に言い聞かせるように告げる。
「葉月だってそれでいいと思うはずだ。お前がそこまで想える奴なんだろ? そんなことでお前を捨てるような親友なら、俺が代わりに親友になってやるよ」
 伊吹は憮然とした様子で、けれど少しも厳しくない口調で言った。
「お前は笹本を好きでいいんだ。だから泣くな」
 私はえぐえぐとしゃくりあげながら、小さな子どもの頃とまるで変わらない泣き方をしていた。そんな私の頭を叩きながら、伊吹はずっとそこに立っていてくれた。
「お前、泣きだしたら止まらないのな」
 いつまでもぐずっている私に、伊吹は小さく苦笑した。
「情けない……。私、眠るまで止まらないんだ……」
「そりゃまた。感情の全力投球だな」
 お前らしいよと伊吹は呟く。
「じゃあ寝る前に帰るか。送る」
 その申し出はありがたかったけど、私は首を横に振った。
「気にしないでくれ。サークル部屋にでもいるから」
「笹本と顔合わせるかもしれないぞ。他のメンバーとも会いにくいだろ」
「今日は葉月が家にいるんだ。……こんな顔じゃ、帰れない」
――誰にいじめられたの、れいちゃん。
 泣いて帰ると、葉月は何が何でも私をいじめた人間を聞き出して怒りにいくのだ。それがどんな年上の子でも、男の子であっても変わることはなかった。
 伯父の家も考えたけど、葉月と同じように心配をかけると思うと行けなかった。
 伊吹は少し考えて言う。
「じゃあ俺の家来い。泊めてやる」
「えと……」
 さすがに私も、男の人の家に上がり込むということの意味を知っている。
 ためらった私に、伊吹は淡々と続けた。
「何もしない。信用しろ」
 私は男の子のことをほとんど知らないけど、一緒にいて伊吹の言うことは信じられるようになっていた。
 伊吹は他人に厳しいが自分にも厳しい。自分が一度言いだしたことを覆すことはしない。
 ……笹本みたいに、その心をはかることができなくて不安になったりしない。
 そういう意味では、私は笹本より伊吹といた方が落ち着けるのかもしれなかった。
 夕暮れで、まだ紅葉しきっていない葉すら真っ赤に染まって見えた。
「……信じる」
 私は一つ頷いて、そう言った。







 都内の学生街の一角の、マンションの三階に伊吹の家はあった。
 伊吹はお兄さんと二人暮らしらしいが、そこは普通の大学生のアパートに比べれば少し広いけど、華やかな世界の住人の住処にしては質素だった。ただ、私は相変わらずぐすぐすと泣いていたから、それくらいしか見ていなかった。
「これ当てて寝ろ。冷やせば腫れも引くだろ」
 青いシートが貼ってあるアイマスクを渡されて、私はぽつんと言う。
「伊吹もよく泣くのか」
「俺が演技以外で泣くか。徹夜明けで目が疲れた時に使うんだ」
「わかった。そういうことにしておく」
「おい」
 私は大人しく冷却アイマスクを受け取った。
「俺は仕事に行ってくる。朝三時まで戻らない。兄貴には、今日は友達の家にでも泊まれと言っておくから安心しろ」
「うん」
「冷蔵庫の横の棚にレトルトがあるから腹が減ったら食っとけ。風呂も勝手に使っていい。ただ隣は兄貴の部屋だから入らないように」
「わかった」
 たぶんこの感じだと朝まで起きないだろうなと思いながら私は一応頷いて、ぴたりと止まる。
「何か?」
「そうだ。葉月の夕ごはん」
「自分で食うだろ。ガキじゃないんだから」
 葉月は家事が全くできない。けれど素敵な女の子として通っているから、どう言えばいいのか私は困った。
「と、いうわけにもいかないんだったな。葉月は料理ができない」
 私が驚いて顔を上げると、伊吹はこともなげに言う。
「わかるさ。ドラマに料理をするシーンがある。あれは演技じゃなく、本当に包丁を持ったことのない人間の手つきだ。それにお前の反応から見るに、たぶん家事全般ができないんだろ」
「……誰にも言わないでくれ」
「わざわざ言うほどのことでもないさ」
 伊吹は少し目を細める。
「ま、俺は笹本だけじゃなく、葉月も気にいらないんだがね」
「え?」
「葉月の連絡先は知ってる。俺が今日はお前が帰らないことを伝えて、外食でもするように言っておくから」
 私は迷ったけど頷いた。たとえメールであっても、今葉月に何があったか問い詰められたら、話してしまいそうで怖かった。
「笹本のことは黙っておけばいいんだろ」
「うん」
 伊吹は笹本がらみのことであることは言わないことを約束してくれた。
 伊吹が仕事に出ていった後、私は眠たさで少し左右に揺れながら周りを見た。
 さすがにベッドを使うのは悪い。そう思って、椅子にかけてあったタオルを肩に羽織ってうずくまった……くらいまでは覚えている。
 そのまま横になったところで、意識が途切れた。







 目を開けた時視界が暗かったので、私はまだ夜なのかと思った。
 けれどアイマスクをしていたことに気付いてそれを外すと、室内は思いのほか光に満ちていた。
 くるりと周りを見渡して、私はそこが伊吹の部屋だったことを思い出す。
 それほど広くはないし、家具も寒色系の地味な色が多くてシンプルだ。けど演劇関係の本やビデオ類がぎっしり詰められた棚が、壁を隠すように並んでいるのが印象的だった。
 起き上がって、私はベッドの上にいて布団も被っていたことに気付く。床で寝た記憶しかなかったので、私は首を傾げた。
 部屋の外から香ばしいコンソメの匂いが漂ってくる。ぐう、とお腹が鳴って、私は引き寄せられるように部屋の扉を開けていた。
 キッチンで鍋を前にしている伊吹をみつけて声をかけると、彼は私を振り向く。
「朝飯作るところだ。スープとパンだけだがお前も食うか?」
「うん」
 伊吹は食パンを二枚取り出してトースターに入れると、鍋の前に戻った。お玉で味見をすると、眉を寄せて首をひねる。
「いつもは兄貴が作るんだが、何か足らない」
「貸して」
 私はお玉を借りてコンソメスープをひと口飲む。
 塩コショウとコンソメの量は足りている。ただ、確かに伊吹の言う通り物足りない感じはした。
「香り付けにショウガでも加えてみたらどうだ? チーズも相性がいい」
「……今」
「どうした?」
 伊吹はなぜか私をじっと見て止まっていた。
「……ごめん。顔洗ってくる」
 もしかして起きぬけで顔に何かついていたのかと、私は気恥ずかしくなる。
「いや、顔の問題じゃない」
「寝ぐせか」
「今、そのお玉で飲んだだろ」
「これ、口つけちゃだめだったか?」
 さっき伊吹もこれで飲んでいたはずだったがと、私は首を傾げる。
 微妙な沈黙の後、伊吹はぽつりと答える。
「そういえば兄貴がケチャップを入れていた」
「ああ、じゃあそれでいいんじゃないか」
 私はとりあえずと洗面所に顔を洗いに行った。念入りに鏡で顔と髪をチェックしたが、それほど変なところがあったようには見えなかった。
 その間にパンが焼けたようで、戻ってきたらパンとスープに牛乳という朝食が二人分テーブルに並んでいた。
 私は伊吹と食べ始めながら切り出す。
「ずいぶんと世話になった。伊吹」
 昨日の夕方から何も食べていない私には格別おいしい朝ごはんだった。素直にお礼を言うと、伊吹はつと私を見る。
「俺に心変わりする気になったか」
「あ、いや」
「冗談だ。うろたえるな、そんなことで」
 ぷっと伊吹は笑った。思わずといったその笑い方は初めて見た気がしたので、私は少し驚く。
 伊吹もまた起きぬけだからか表情が柔らかい。そんなことを思いながらじっと見ていると、伊吹が何気なく言う。
「笹本だって心変わりするかもしれないぞ。今は葉月が好きでも、そのうちお前を彼女に選ぶかもしれない」
「……そんなことはないよ」
「和泉。一途なのはお前のいいところだが、それだと辛いだろ。気楽に考えてみるのもいいんじゃないか」
 スープを飲みほして、伊吹は低い声だがいつもよりゆったりと話す。
「死ぬまでたった一人しか好きになったら駄目だっていうのか? 誰が自分にとって一番いいのか、付き合ったり離れたりして選んでいくもんだろ」
 器を置いてから伊吹は考えるように宙を見た。
「俺からすれば、なんで笹本は葉月の方がいいのか不思議でならないがね。お前の方が信用できるし、一緒にいて面白いのに」
「葉月は綺麗だ」
「お前の方がかわいいよ」
 私はうろんな目つきをして伊吹を見る。
「伊吹、寝ぼけてるのか?」
「じゃあ今度昼に会った時に言えば納得するか」
 言葉に詰まった私に、伊吹はパンをかじって続ける。
「結局、その辺の良さもわからない笹本より俺にした方がいいってことに落ち着くんだが。まあそれは置いといて……」
 伊吹は私に目を移す。
「今のお前は葉月との関係のために躍起になりすぎてる。少し頭を冷やすといい」
「頭を冷やす?」
「少し笹本と離れてみろってことだ。やめるかはともかく、サークル休んどけ」
「でも笹本とはクラスが一緒なんだ」
「お前が無視すれば、向こうからはしばらく話しかけてこないよ。お前が笹本を好きなのは、もうあいつに伝わっただろうからな」
「……やっぱりそう聞こえたかな」
 一晩明けると、私の言動は笹本と仲のいい女の子への嫉妬としか思えないものに聞こえただろうと思った。
「これでまだ馴れ馴れしく話しかけてくるほど、あいつが鈍い奴だとは思えない」
 私は少し考えて言う。
「私が伊吹と付き合ってるって話を聞いても、笹本はあんまり変わらなかったけど」
「笹本は、俺にいくらやっかまれても平気だと思ってたんだろ」
 伊吹は迷わず続ける。
「今回は違う。今これ以上お前にちょっかいをかけたらお前に嫌われる」
 私に嫌われたからといって笹本は気にするだろうかと、私は視線を落とす。
「笹本はお前に嫌われたくはないさ。それくらいは俺にもわかる」
 私の心を見通したかのように言う伊吹に、私はうつむいたまま呟く。
「もう嫌われたと思う。ひどいこと言ったから」
「お前のことを少しでもわかってるなら、あれが本気の言葉じゃないことは気づく」
「そうかな」
「ああ」
 伊吹は頷く。
「お前が思うより笹本は……」
 言葉の途中で、伊吹は顔をしかめた。
「……俺が教えてやる義理はないか」
 そう呟いて、伊吹は顔を上げる。
「さてと」
 伊吹は携帯電話を開いて電源を入れた。
 その途端に鳴りだす携帯に、伊吹は苦笑する。
「着信五十二件、メールがちょうど六十通。俺が初めて外泊した時に兄貴がかけた回数といい勝負だな」
「なにが?」
「食ったら行くぞ。駅前のコーヒーショップ」
「あ、うん」
 私はわからないまま頷いて、ふと言う。
「いろいろありがとう。お前、けっこういい奴なのか?」
「いい奴ときたか」
 携帯をポケットにしまって、伊吹は薄く笑う。
「そんな奴がいたら会ってみたいね」
 私は伊吹の言葉にきょとんとしていた。








 コーヒーショップに行ったら、ひときわ目立つ女の子が窓際に座っていた。
 長く細い手足につややかな長い黒髪。サングラスをかけても一目で一般人とは違う整った顔立ちがわかる彼女は、私と伊吹をみとめるとすぐに席を立った。
 私が駆け寄る前に葉月は目の前に立っていて、そして手を振り上げていた。
 咄嗟に目を閉じた私に衝撃はくることがなく、私の横で音が響いた。
 伊吹が叩かれたのだと気づくのと同時に、シャッターを切る音がどこかで聞こえる。
「葉月、今誰かカメラ……」
「ほっときなさい」
 葉月は怒気をはらんだ声で低く言って、伊吹の胸倉を掴む。
「おはよう、伊吹君。いい朝ね」
 今にも爆発しそうな声に反して、葉月は眩しいほどの笑顔を張り付けていた。
「おはよう。こんなところで会うなんて奇遇だな」
「そうね。ドラマみたいな偶然よね」
 お互いにこやかに声をかけ合うのは、恋人同士のように……は見えなかった。二人とも背後に黒いものが見えてならないのだ。
「手、出したの?」
 伊吹の耳元で囁いた葉月に、彼は薄く笑う。
「葉月の言葉とは思えないが?」
 そう言って、伊吹は葉月の耳元に口を寄せる。
 声が低すぎて、何を言ったのかは聞こえなかった。
 葉月は少し目を見開いて伊吹の顔を見る。
 それから私の手を取って、葉月は踵を返していた。
「ね、あの……あっ」
 ずんずんと歩いていく葉月があんまりに速いので、私は追いつけなくなってつまずく。
 それをすんでのところで葉月がすくいあげて、そのまま私を抱きしめた。
「葉月、その……みんな見てるよ」
 まだ朝早いとはいえ、駅前の道の真ん中だ。出勤途中の人たちがちらちら視線を送ってくる。
「ごめんね、葉月」
 けれど葉月がしがみつくように抱きしめていたから、私はゆっくり手を上げて葉月の背中に触れた。
「夕ご飯、作ってあげられなくて。お風呂入れるのとか、一人でできた?」
 私が拙いことを言うと、葉月はぎゅっと力をこめる。
「ううん。だけど、そんなことは、いいのよ……」
 葉月の声が一瞬泣いているように聞こえて、私ははっとする。
「帰りましょ」
 体を離した葉月は笑っていたから、私の聞き間違いだったかもしれない。
 それからは、葉月は私の手を取ってゆっくり歩いてくれた。
「私、伊吹君に嫌われちゃったわね」
 葉月は苦笑しながらそっと切り出した。
「きっと記事にされるわ。「伊吹の浮気に平手打ちする葉月」の写真」
「え」
「純真さで売ってる葉月のイメージに傷がつく。けど今悪い男の役どころをやってる伊吹君には悪くない写真よ」
 私はむっとして葉月を見た。
「伊吹の奴、葉月をはめたの?」
「ちょっとした嫌がらせよ。それに私もわかっててやったんだから責めるところじゃないわ」
 葉月は首を傾けて私を見下ろす。
「彼にさっき言われたの。「俺はお前が嫌いだ。お前は和泉を独り占めしてる」って」
「伊吹が……あいつ」
「でも徹底してるわね、彼。私、彼は嫌いになれそうにないわ」
「どうして?」
「嫌いな人間は嫌い、好きな人間は好き。私は傷つけてもれいちゃんは傷つけない。あの写真、一般人のれいちゃんの顔は出ないもの」
 だけど葉月を貶めるようなことをするなんて、と私は顔をしかめる。
 たぶんこれは笹本への嫌がらせでもあるのだろう。葉月と伊吹が付き合っているという報道に拍車をかけて、葉月の彼氏としての笹本のプライドに傷をつける。
「やっぱり嫌な奴だ」
 ぽつりと呟いた私を、葉月は苦笑しながら聞いていた。

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