a piece of cake〜君に恋をするのは何より簡単なこと〜
プロローグ
 今住んでいる場所から電車で一時間ほど。ずっと気になっていた場所だった。

 夏にはたくさんの人が訪れる海岸は花火大会も有名だったし、海岸線には雑貨店や飲食店など様々な店舗が並ぶ。

 今はまだ五月だが、多くのサーファーが波乗りを楽しんでいた。

 テレビや雑誌で見るたびに、いつかは行きたいと思っていた。

 まさかこんな気持ちで来ることになるとは思っていなかったけどね……。

 梶原(かじわら)那津(なつ)は小さめの旅行バッグを持ったまま、海岸線の歩道に立ち尽くしていた。

 予約をしたホテルは確かこの辺りだったはず。地図と睨めっこをしながら、那津は首を傾げた。

 私ってこんなに地図が読めなかったっけ? それとも泣きすぎて思考回路がおかしくなってる?

 那津がぼんやりと海を眺めていると、海岸が何やらざわつき始めた。人々が集まり、大きな声も聞こえる。やがて消防車が近付いてくる音がし、海岸の駐車場に水難救助隊と書かれた車が入って行くと、中から数人の消防士が飛び出してきた。

 ここからはよく見えないが、どうも誰かが波にさらわれたようだ。やがて救急車も到着し、緊迫感に包まれたまま救助が進んでいく。

 担架に乗せられた人が救急車に乗せられると、何人かの人々の歓声が上がった。

 ということは、きっと救助が成功したんだ。遠く離れた場所にいた那津も、誰かの命が助かったことに安堵する。

 救助にあたっていた消防士たちが車に戻ろうとするのを、那津はただじっと見つめていた。そして消防車が那津の横を抜けていく時、助手席の消防士と目が合った。濡れた黒髪が艶っぽくきらめき、女性の心を掴みそうな端正な顔立ち。

 たった一瞬の出来事。そして車はそのまま走り去っていった。

 水難救助隊ということは、海での事故の専門家なのかしら……。

 気を取り直して、スマホに映る地図をナビ機能に変換してみる。

『百メートル先を、右に曲がってください』

 ようやく進行方向がわかった那津は、ホッとしたように歩き出した。
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