拝啓 まだ始まらぬ恋の候、
五、 紅葉のうつくしい季節となりましたが、

『今日は歯医者に行ってきました。対局中、無意識に奥歯を噛み締めていることと、歯磨きの方法について毎回注意されます。
そのせいか、歯医者の帰りにはいつもチョコレートが食べたくなります。深層心理で反抗しているのかもしれません。』

芙美乃が廉佑の対局を初めて観たのは、紅葉も盛りの十月下旬のことだった。

タイトル戦以外にも重要な対局や人気棋士の対局は中継されるが、ほとんどが平日に行われるため、それまではなかなかタイミングが合わなかったのだ。

その日は、現在竜王のタイトルを持つ人気棋士との対局が中継された。
順位戦と言って、タイトル戦以外では最も持ち時間が長く、それぞれ六時間。
終局は深夜になることも珍しくないらしい。

残業もそこそこに、芙美乃は足早に自宅へ向かった。
遊歩道の木々は葉を落とし、歩くとバサバサ音がする。
あの日廉佑が座っていたベンチにも、赤い葉がいくつも降りていた。

七時過ぎに帰宅した芙美乃はタブレットで対局中継を開いた。
画面いっぱいに将棋盤が映し出される。
解説はなく、盤だけ見たところで芙美乃には何が何だかわからない。
けれど、左下のワイプ画面には項垂れる廉佑の姿があった。

組んだ胡座に頭を沈めるように背中を丸めている。
当然盤は見ていない。
対戦相手も胡座だが、背中を伸ばして盤を睨む姿は廉佑をも睥睨しているように見える。

作り置きしておいたハンバーグを温めに立つこともできず、芙美乃はタブレットを食い入るように見つめた。
沈み込む廉佑は、呼吸しているかどうか心配になるほど動かない。
意味はないとわかっているのに、タブレットを下から覗き込む。

しばらくして廉佑は両手で頭を抱え込んだ。
背中はますます丸くなり、地震や空襲から身を守るかのように小さくなっていた。
これは歯も悪くなるだろう、と芙美乃も納得する。

負けているのかな。

しかし形勢を判断するAIの評価値は、廉佑の方が48%、相手が52%とあまり差がない。

対局者は評価値を知らない。
局面にもよるが、AIと人間の感覚には差がある。
廉佑は、形勢を悲観しているのだろうか。

『芙美乃さんがお友達と食べたというビーフシチューが食べたくなって、僕もコンビニで買ってきました。レトルトで三百六十円。とてもおいしかったので、また食べたいと思います。』
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