叔父一家に家を乗っ取られそうなので、今すぐ結婚したいんです!
突然の同居
 ラルフが今日から一か月、バベッチ家に住むらしい。
 クリスからの委任状を持ってやって来たラルフを前に、オーレリアは固まってしまった。

 家族を失ってからオーレリアも茫然自失の体だったので、確かに伯爵家の政務は滞っている。執事のケネスが代行できるところは仕切ってくれたようだが、当主もしくはそれに準ずる人間の決裁が必要な書類は執務室に積まれたままだ。
 オーレリアには当主権限が与えられていないから、バベッチ家の当主もしくはそれに準ずる人間とは認められない。書類は積み上がる一方で、サンプソン家に決裁権限を委任された代行者を頼もうと思っていたところだったから、ラルフが来てくれたのはありがたい。けれど。

(……一緒に住むんだ……)

 権限を与えられた代行者がその邸に住むことは珍しくないけれど、ラルフと一緒に住むと言うのは緊張する。ラルフから求婚される前だったら何も思わなかったかもしれないけれど、あの日から妙に意識してしまって、距離が近づいただけでドキドキするのだ。

 執事のケネスが、ラルフを連れて二階の客室へ上がった。ラルフが使っている客室は決まっている。ラルフは何度もバベッチ家に泊ったことがあって、いつも東側の客室を使っているのだ。……ちなみに、オーレリアの部屋の二つ隣である。

 部屋に荷物をおいて、ラルフがケネスとともに階下に戻ってきた。玄関ホールに立ち尽くしていたオーレリアはハッとして、彼をダイニングに通す。昼をすぎたばかりだったから、たぶんラルフは昼食を食べずにサンプソン家から移動してきたに違いないと思ったのだ。
 ケネスも心得たもので、料理長に頼んでラルフに軽食を用意させる。

「助かる。腹が減ってたんだ」

 ラルフが笑って、出されたサンドイッチを頬張った。
 何となく、テーブルを挟んで彼の前の椅子に座ったオーレリアは、ラルフが美味しそうにサンドイッチを食べるのを見つめながら訊ねる。

「うちは助かるけど、ラルフはクリス様の護衛として働きはじめたばかりでしょ? よかったの?」
「ん? ああ。もちろん。オーレリアと結婚したら俺の仕事になることだし」
「け……!」
「あ、もちろん、オーレリアが承諾してくれればの話だぞ?」

 オーレリアがボッと赤くなると、ラルフは楽しそうに笑った。
 ラルフが結婚なんて言うから否が応でも意識してしまって、オーレリアは小さく俯く。
 オーレリアが照れてもじもじしている間に、サンドイッチをぺろりと平らげたラルフは、さっそく仕事をすると言って立ち上がった。

「あ、じゃあ執務室の鍵を渡すね。鍵は今、わたしが持ってるの」

 重要書類がある執務室の管理は厳重だ。特に当主がいないのだから気をつけなければならなくて、鍵はオーレリアが責任を持って管理することにしていた。
 鍵はオーレリアの自室の金庫の中に収めているので、ラルフと一緒に二階に上がる。部屋に入ると、ラルフがふと思い出したように、「なあ、あのウサギは?」と訊いてきた。

「うさぎ?」
「ほら、お前が子供のころ大切にしてた、白いウサギのぬいぐるみ」

 言われて、オーレリアはすぐに合点がいった。オーレリアが小さいころに、どこに行くのでも一緒だった白いウサギのぬいぐるみ。オーレリアは金庫から執務室の鍵を出してラルフに手渡した後で、続き部屋の寝室へ向かった。ベッドの枕元に置いてあったウサギを持って部屋に戻る。

「これでしょ?」
「そうそう、それ。なあ、ちょっとそれ、昔みたいに抱きしめて見てくれない?」
「いいけど……」

 ラルフはいったい何がしたいのだろうか。不思議に思いつつも、オーレリアがぎゅっとウサギのぬいぐるみを抱きしめると、ラルフは満足したように笑った。

「ああ、いいな。やっぱオーレリアはそういうふわふわしたのが似合うよな」
「ええっと……もしかしなくても、子ども扱いしてる?」
「してないしてない」

 ラルフはくしゃりとオーレリアの髪を撫でる。

「お前は昔っから可愛いなってこと」
「へ⁉」
「じゃ、俺、仕事してくるから」

 ラルフがひらひらと手を振って部屋から出ていくと、オーレリアは抱きしめていたウサギのぬいぐるみに顔をうずめる。

「……もう、なんなの?」

 結婚の話にしろ今にしろ、ラルフはどうして平然とオーレリアが照れるようなことを言うのだろうか。

「なんか、わたしだけドキドキしてバカみたいじゃない……」





 夕食のあと、オーレリアはラルフが使っている客室へ向かった。
 ギルバートにはハンカチを渡したけれど、ラルフにはまだ渡していなかったのだ。
 ラルフのイニシャルとカルフォード家の家紋を刺繍した青いハンカチを持って客室の扉を叩くと、中から出てきたラルフはどうやら風呂上りらしかった。
 バスローブ姿で、髪からはポタポタと雫が落ちている。

(ひ!)

 思わず心の中で悲鳴を上げて、オーレリアは後ずさった。

「ご、ごめん! お風呂上りだって知らなくて、ま、また明日でいいわ!」

 ラルフの顔は幼いころから飽きるほどに見てきたけれど、お風呂上がりの彼を見たのははじめてだった。
 真っ赤になって逃げだそうとしたオーレリアの手を、ラルフが掴んで押しとどめる。

「上がったところだから気にしなくていいよ。ほら、用があったんだろ?」

 そう言って部屋の扉を大きく開けられるから、オーレリアはラルフと部屋の中を交互に見て、おずおずと足を踏み入れる。
 がしがしと片手で濡れた髪をタオルで拭きつつ、ラルフがソファに腰かけた。
 部屋の中にはソファは一つしかないから、二人掛けのそれに、オーレリアもちょこんと腰を下ろす。端の方に腰を下ろしたのは、お風呂上がりのラルフの高い体温が伝わって来てドキドキするからだ。

(なんでバスローブ姿なのよ。パジャマ着なさいよ、パジャマ!)

 バスローブのざっくり空いた胸元から、鎖骨とか、鍛えられた胸襟とかが見えて直視できない。
 濡れて顔のラインに張り付いている銀色の髪と、風呂上がりの上気した顔が何とも言えずなまめかしかった。

 やっぱりだめだ。これ以上ここにはいられない。心臓が壊れそうだ。
 ここは早いところ目的を達成して、部屋に逃げ帰るのが得策だ。
 オーレリアは持って来たハンカチをラルフに押し付ける勢いで手渡した。

「や、約束のハンカチ!」

 ラルフはハンカチを受け取って、刺繍を確かめたあとでニカッと笑う。

「おー、ありがとう。お前、刺繍上手だったんだな」
「そんなに難しい模様じゃなかったから……。じゃ、じゃあ、わたしはこれで」

 そそくさと立ち去ろうとしたオーレリアだったが、「待てよ」とラルフに止められて逃げるチャンスを失った。

「せっかく来たんだから、ゆっくりして行けばいいだろ? 茶はないけど酒ならあるぞ。飲むか?」
「う、うん。少しなら」

 というか、この状況は素面では耐えられそうもなかった。酔わないとやってられない。

(どうしたんだろう、わたしの心臓。ドキドキしすぎて壊れるんじゃないの⁉)

 それもこれもラルフが悪い。突然求婚してきて、今日から一緒に住むことになったし、今はお風呂上がりだし、オーレリアの心臓を壊そうとしているとしか思えない。

 ラルフが棚からウイスキーの入ったボトルとグラスを二つ持ってくる。よりにもよってウイスキーか。もっと甘いお酒がよかったが、考えてみればラルフが飲む酒に、オーレリアが好んで飲むアルコール度数の低い果実酒があるはずない。
 とくとくとグラスに四分の一ほどウイスキーを注いで、ラルフが手渡してくる。べろりと舐めるように飲むと、すぐにカッと喉の奥が熱くなった。

「それでお前、俺とギルバート様のどっちを選ぶか決めたの?」
「ぶーっ!」

 思わず口に含んだウイスキーを噴き出してしまった。それほど口に含んではいなかったが、それはオーレリアの膝の上に散って、パジャマに淡いシミを作る。

「あー、何やってんだよお前」
「ラルフのせいでしょ⁉」

 ラルフが首にかけていたタオルで、オーレリアの膝の上を拭く。ラルフが身をかがめたから、オーレリアのすぐ顎のところに彼の湿った髪が触れて、太ももには彼の手の熱があって、オーレリアはパニックになりそうになった。

(近い近い近い近い近い近い――――――!)

 ラルフが近い! 体温が近い! 呼吸が近い! とにかく近い!
 アルコールが体の中に入っているからか、今までとは比較にならないほどに体温が急上昇していく。

「あー、完全にシミになったな。あとで着替えろよ、これ」

 オーレリアの服を拭いていたラルフが、シミ取りを諦めて顔をあげた。
 パッと目が合う。
 見つめ合うこと数秒。
 ラルフの青い瞳に吸い込まれそうな錯覚を覚えて、オーレリアが目を逸らすことができないでいたら、彼の手がそっとオーレリアからウイスキーのグラスを取り上げた。

「オーレリア」

 どこか熱っぽい声で名前を呼ばれる。
 オーレリアから取り上げたグラスをことりとテーブルの上に置いて、ラルフがそっと彼女の頬を撫でた。
 するり、とまるで羽のような軽さで頬が何度も撫でられる。

「オーレリア」

 ラルフが、もう一度オーレリアの名前を呼んだ。
 彼の顔が、少し、また少しと近づいてきて――

「きゃああああああああ!」

 オーレリアは悲鳴を上げてラルフを突き飛ばして立ち上がると、その場から脱兎のごとく逃げ出した。

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