ぼくらは薔薇を愛でる
第一章

昔々の、はじまり

 ローシェンナ帝国の王妃は、産気づく前夜、夢を見た。だだっ広い草原が広がる中を一人で歩いている。足下には色とりどりの花が咲き、花々は王妃に笑いかけているような、そんな優しくて明るい空間を創り出していた。

 ――ここはどこ……陛下はどこ……

 辺りを見回した。とにかく淡い空色とパステルカラーの花の絨毯が広がるばかりで、知っている風景では無い。穏やかな空間なのに、その"どこかわからない状態"はほんの少しの不安を掻き立てた。
 だから、ひたすら歩いた。幸いにも地面は柔らかく、汚れるような泥の道でも無い。そうして、やがてどこからともなく声が聞こえてきた。とても穏やかな優しい声の主はなんとなく頭上にいる気がして、天を仰いだ。

 王妃は、その言葉を一言も聞き漏らさぬよう注意深く耳を傾け、そして声は止んだ。

 静寂という名の音に包まれた次の瞬間、自身の耳鳴りがうるさく感じたと思ったら、身体が真っ白い光に包まれた。あまりの眩しさに腕を目に当てて顔を覆った。

 光がおさまったと目を開ければそこは王城の寝台の上だった。見慣れた天井、カーテン、花瓶が目に入る。ホウッと大きく息を吐いて、今しがたの夢について考えた。

 ――もしかしたら、御神託では……

 傍のベルを鳴らして侍女を呼び、朝の支度を整えると、言った。

「陛下のところへ行きます、どちらかしら」
 先ほどの"夢"の話を王に進言しようと思った。普段なら共に同じ寝台なのだが、臨月を迎えた身重の王妃を慮り、それぞれ別々の寝台で寝んでいる。
 ゆっくりと王の居る執務室へ向かった。

「陛下、おはようございます。あの、お話ししておかなければならない事ができましたの。実は今しがた――」

 王へ聞いた事を詳らかに伝え終え、立ち上がった時だった。緩やかに、"その時"がきた。

 定期的に訪れる陣痛の波を越え、まもなく王子が誕生した。父に似た漆黒の髪を持ち、母譲りの深い青色の瞳をした元気な王子だった。待ちに待った王子の誕生は、瞬く間に城内はおろか城下町にまで届いた。

 レグホーン・ローアンバー・ド・ローシェンナと名付けられた王子は、手足を元気よく動かして大きな声で泣いた。すぐさま初乳が与えられた。よく顔を見れば左目下に泣きぼくろがあり、その胸部には不思議な形の、王妃が夢で聞いた『神託』通りだった。

 王妃はそれから数年置きに王子と王女を出産したが、神託があったのはレグホーンのみで、痣があるのも彼だけだった。この痣の事を知る者は王と王妃、産婆のほか、数名の家臣と従者のみで、いずれの者にも箝口令を敷いた。王妃の受けた神託にも関わる事柄であるから、箝口令は王子が大人になるまで継続された。

 そのレグホーンは弟妹を可愛がり、面倒をよく見るお兄ちゃんだった。幼い彼らと真剣に遊び、自身の勉強にも手を抜かない。だが勉強をサボることも全力で楽しむ。好奇心が旺盛で学ぶことを厭わない子供だった。

 レグホーンがもうすぐ10歳を迎えるというある夜、彼は父王に呼び出された。まだ遊びたいと駄々をこねる弟妹を残して、父王のもとへ向かった。

「2ヶ月後にお前の誕生祝いの夜会を開く」
「はい」
「まあ誕生祝いは名目で、国中から『神託』に沿う令嬢を招待する。その中から婚約者として一人選べ」
「婚約者!?」
「ちょうどよい年頃だろうと思う。今頃から妃教育を受けさせ、18になったら挙式だ。招待する令嬢達には祝いの挨拶をさせるから、その時さりげなく令嬢と握手をしてみよ」
「握手、ですか」
 父は息子を手招きし、耳元で、室内に控えている従者と侍女には聞こえないように囁いた。

「互いに触れ合うことで『神託』の相手なのかどうかが解るんだそうだ。おまえのその痣が何らかの変化を起こすらしい」
 父王は、トン、と息子の左胸を指で軽く叩きながら、ワクワクした顔をしていた。

「……なるほど?」
 どういう原理なのだろう、わかったようなわからないような。

「もしも、もしも一人も選べなかった場合、彼女達はどうなるのですか? 選ばれなかった、というショックを与えたりは」
「それは心配いらぬ。今回、婚約者選びだなどと明言はせん。だから選ばれなかったとて彼女達に咎は無い。その家に対しても責は負わせぬから安心しなさい」
「私の婚約者はどうするのです、幅を広げて再度招待を?」
「何の変化もなかったら、好みの令嬢を選ぶがいい」
 好みの、と聞いて、レグホーンは目を一瞬だが輝かせた。今だ。今しかない。父王の目を見て言った。

「――ならば、お願いがあります」
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