きんいろ
九月のそらへ
 夏休みが終わって、授業が再開する。夏休み中にもう一度、九月に入ってから一度、藤棚の下のベンチで描いているときに藤枝さんに会った。藤枝さんはバスケットボールを持って、私はパレットに色を並べて。
 夏休みに会ったときは、斜面の上でベンチを見上げた藤枝さんに、私はぺこりと頭を下げた。藤枝さんはちらっと笑みを返してくれた。そのあと、藤枝さんは坂道を上ってカーブを曲がり、今度は私の背中側を通るのだけれど、私はふり向かないでいた。パレットの上でイメージぴったりの色をつくるのに夢中で……ううん、夢中になっているふりをして、ふり向かなかった。本当は、背中に全神経を集中して、藤枝さんが背後の道を歩いていく足音を拾っていた。足音が聞こえなくなってからそっとふり向いたら、藤枝さんが次のカーブを曲がるところがぎりぎりで見えた。
 九月に会ったときは放課後で、川崎さんが一緒だった。
「こんにちは」
 思い切って、声に出してふたりに挨拶した。藤枝さんは笑って『こんにちは』を返してくれた。でも、川崎さんは、なぜかなあ、一応会釈はしてくれたけど、私を見る目つきがやっぱり冷たかった気がした。
 私、自分でも気づかないうちに、川崎さんに何か失礼なことをしたのだろうか。話したこともないんだけど。柊子が好きにならなければ、よく藤枝さんの横で見かけるというだけで、名前も知らなかった人だ。
 ……気のせいかなあ。私、自意識過剰かなあ。
 もしそうなら、自分がちょっと嫌になる。よく言われるぶりっこと自意識過剰って近いところにある気がするから。
 私はぶりっこをしているつもりはないけれど、他の人から見るとそういうところがあるんだろうか。柊子も、仲良くなる前は、私のことをぶりっこだと思っていたそうだ。自分が気づかないだけで、ぶりっこ要素があるのかなあ。もしかして、川崎さんにもそう見えて、嫌われちゃったのかなあ。男子にもぶりっこが嫌いな人はいるよねえ。
 次に九月の放課後に会ったときは、藤枝さんはひとりで丘の小道を上ってきて、私は密かにほっとした。川崎さんがちょっと苦手になっていたのもあるけれど、それだけじゃない。藤枝さんがいつも通りバスケットボールを持っていることにも、よし、と思った。
 実は、藤枝さんと『こんにちは』以外も話せる口実を用意していた。
 斜面の下と上でいつも通り会釈を交わしたあと、私は今までとは違って立ち上がり、藤枝さんがベンチの後ろを通るのを待ち構えた。藤枝さんが近づいてくる。心臓のリズムが速くなる。スケッチを拾うために斜面に飛び降りたときの気持ちで、声を出す。
「藤枝先輩、あの」
「うん? 何?」
 呼び止められて、藤枝さんは私を見る。何気ない率直なその視線を受け止めただけで私の心はカツンと固まり、唇はもう滑らかに動かない。
「あの、今、バスケットが……体育の授業でバスケットを、やっていて、今度フリースローのテストがあって、私、苦手で……もし、先輩が上のコートに行くなら、あの、フリースロー、ご迷惑でなければ……」
 日本語の文法がぐだぐだになっていく口実を、先輩は可笑しそうな表情でくるんと掬いあげる。
「俺でよければ、フォーム見ようか」
 たぶん、断られないんじゃないかな、と思ってはいた。
 だって、親切な人、だから。
 でも、いざ教えてもらえることが決まると、ぽっと頬が熱くなった。それを隠そうと、
「……お願いしますっ──」
 深々とお辞儀をしたのだけど、お尻が勢いよくベンチの背もたれを押して、ベンチが動いて、置いてあった絵の具箱が落ちてしまって。
 緑の草の上に散らばる、赤や青や……たくさんの色彩。
 藤枝さんは笑いをこらえながら、私は『すみません』を連発しながら、ふたりで絵の具を拾い集め、箱に並べる。
 ああ、恥ずかしい。二回目だ、絵の具をひっくり返してしまうの。花火まつりのときは高校生にもなって迷子みたいな感じだったし……。体育祭の実行委員に選ばれちゃうようなしっかり者の柊子や、もの静かで大人っぽい佐倉先輩が羨ましい。
 ふっと、小さな吐息がこぼれた。──藤枝さんは、佐倉先輩のことを、どう思っているんだろう。きれいだけど気取ってなくて、控えめで優しくて……私には、とても素敵な女の子に見えるのだけど。
「絵の具、これで全部?」
「あ、はい」
「じゃ、行こうか」
「……はい」
 でも、ふたりはつきあっているわけではないようだから。
 いいよね、私の気持ちはこの人を好きでいても。

      ☆

 フープに跳ねてバスケットの外にこぼれたボールを、ゴール下の藤枝さんが片手に受けた。ワンバンで柔らかく私に放ってくれる。
「うーん。ボール構える位置、もう少し高く」
 言われたとおりに、私はボールを持つ構えを変える。
「──おっけ。バックボードを狙うつもりで」
 私は目線をバスケットからバックボードへと上げた。バックボードは、傾いた九月の日差しに金色に縁取られている。
 コートを囲む木立のどこかで、カナカナカナ……と、ヒグラシの声が硬く響いた。
 バックボードを狙って、えいっ、と腕を伸ばした。私の手を離れたボールは空中に弧を描き、パサッとバスケットを揺らした。
 ──うわ、入った。
 どうやったら素人の女の子にフリースローを上手く教えられるか──真剣に考えているらしいしかめ面だった藤枝さんの顔が、子どものように綻びた。
「おっけー。今のでもう一度」
「はい」
 私も笑顔になっていた。ボールを受け取って、鼻の頭の汗を拭う。ようし、もう一度。

 フリースローが少しだけ上手くなったあと、私は藤枝さんと並んで丘の小径を下った。志望大学を教えてもらったりして、どきどきする。なんだか藤枝さんと少し親しくなった気がする。──なれたのかな?
 藤棚のベンチの横で、私は足を止めた。水彩の道具一式がベンチの上にある。彩色の続きを待つような感じで。でも、まとめて置いてあるから、そのままさっと持って帰ることもできそうな感じもしている。
「じゃあ」
 藤枝さんは私と一緒にいったんは立ち止まった。けれど、すぐに私に向かって片手を上げた。フリースローの練習は終わったから、私は当然中断した作業に取り掛かるものだと思っているようだった。彩色はもう終わりにして帰ることだって簡単にできるのに、一緒に帰ろうか、なんて言葉は思いつきもしないみたいだ。
「あの」
 私は藤枝さんを呼び止める。藤枝さんが思いつかないなら、私から。私は大きく息を吸って──。
「……ありがとうございました」
 頭を下げる。
 一緒に帰りませんか、という言葉は、思いついただけで、自分の外に出ていかない。単純に恥ずかしくてムリ、だったし、それに……佐倉先輩の優しい顔が思い浮かんだし。
 たとえ、ふたりがつきあっていなくても、佐倉先輩は……。
「どういたしまして」
 頭を下げたままの私に、藤枝さんが笑んだ気配がふわりと伝わった。でも、顔を上げたときには、藤枝さんはもう私に背を向けて歩き始めていて。
 後ろ姿を私は見送る。
 今日も、見送る。
< 15 / 27 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop