きんいろ
六月のエチュード
 高校生活にもようやく慣れた、六月初めの午後だった。
 本当はどうなのか知らないけれど、城東高校の裏庭は仕切りもフェンスもないままに小さな丘に続いていて、生徒たちは、木々がこんもりと繁ったその丘も、自分たちのキャンパスだと思っている。
 晴れた日には仲良しグループが木陰でお弁当を広げたり、放課後には運動部が木立の中をくねくね曲がる坂道をランニングしたり。
 ……ちょうど今も、女の子たちの元気の良い掛け声が丘を上ってくる。
「城東、ファイ! がんばろう、はい! いちにさんし……」
 この掛け声は女子バレーボール部だ──なんてこともすっかり覚えた。
 私は丘の小道の途中にある藤棚の下のベンチに座っている。膝にスケッチブックを広げ、手にはスケッチ用の鉛筆を持って。
 足下の地面が平らなのは藤棚の周りの狭い範囲だけだ。ベンチを立って前に数歩行けば、下りの斜面が始まる。あえて滑り降りようと思ったことはないけれど、勇気を出せば降りられそうなくらいの角度で、高さは三メートルくらいかな。もしも、えいっ、と滑り降りれば、今ちょうど女子バレー部がランニングしている坂道に降り立てる。
 掛け声を響かせて丘を上ってきた女バレの部員たちは、ベンチの私が見下ろす坂道を通り過ぎると急なカーブを曲がり、木立の陰に見えなくなった。
 けれど、彼女たちの掛け声は、すぐに背後から聞こえるようになる。ふり向けば、彼女たちが走っていく姿がもう一度、今度は水平に眺められる。
 つまり、私のいる藤棚は、坂道のU字カーブにはさまれたわずかな平地につくられているわけだ。
 この高校の美術部の活動は中学校の美術部に比べると随分ゆるめで、週に一度のミーティングの日以外は、いつどこで何を描くかは部員の自由だった。
 ──というわけで、今日みたいに晴れた日は、スケッチブックを持って丘を上る私である。
 見晴らしの良いこの藤棚のベンチは、私のお気に入りの場所だ。
 少し前には藤がいい匂いをさせていて、それを描いた。今は日差しを弾く緑が気持ちいい。目の前は広く開けている。丘の下の田んぼや住宅地が見渡せる。遠くに青い海も見えて、今度はそれを描こうと思う。ここには描きたいものがたくさん見つかる。それから……。
 誰にも話したことはないのだけれど、入学してすぐの放課後、友達と学校探検をしてここで見た夕暮れが、私の記憶の中の風景ととてもよく似ていた。
 見て、ベンチがあるよ──友達が指差したベンチにふたりで座ろうとしたとき、私の前に広がったのは、金紗のかかった春の夕暮れだった。
 空は柔らかにオレンジ。細い筆でさっと刷いたような雲は薄紫で、その端はほんのりとオレンジピンク。
 胸が、きゅん、としていた。丘のふもとの田んぼには菜の花がいっぱいで、その黄色が翳る日差しの中でセピアにかすんでいたのも、そっくりだった。──年長さんになったばかりの春、保育園がひけてから『冒険旅行』に出かけて見た夕暮れの景色と。
 迷子になって帰り道を失くしていたのに、不安や心細さは記憶にない。その夕暮れの風景を思い出すと心を満たすのは、何か温かいものにくるまれているような安心感、それでいて、とても自由な、どこまでも行けそうな気持ち。その中でずっと目を閉じていたくなるような気持ち。
 記憶の中の夕暮れを絵にしたい、と思いついたのは、いつだっただろう?
 絵を描くことは、保育園のときから大好きだった。小学校のときは、夏休みの宿題や図工の授業の作品で小さな賞をもらったことが何度かある。
 初めて夕暮れを描いてみたのは、小学校三年生のときだったと思う。
 誕生日に、新しい色鉛筆とスケッチブックを買ってもらって、最初の一ページに何を描こうか一生懸命考えて、ふと心に浮かんだんだ。あの春の夕暮れは? って。
 思いついたら、もうそれ以外は考えられなかった。
 私は白い紙の上に色鉛筆を滑らせた。
 オレンジの空。薄紫の雲。
 だけど、できあがった絵を見て、私は、これじゃない、とがっかりしたんだ。買ってもらった色鉛筆は三十六色もある、小三の私にとっては豪華なものだったのだけれど、空のオレンジも雲の紫も『これじゃない』色だった。
 四年生になり、五年生になって……夕暮れの記憶は薄れるどころか、むしろ鮮明になってくるようだった。オレンジの空。薄紫の雲。菜の花のセピア。
 私は夕暮れを何度も描いた。でも、何度描いても『これじゃない』だった。金色の紗をふわりとかけたような空気が描けなかった。目を閉じればはっきりと浮かぶのに。
 中学で美術部に入った。絵を描くのが好きだったし、五歳の春の夕暮れを描きたくて。
 美術部で使う画材は水彩絵の具を選んだ。大気の透明感とか滲むような淡い色合いが表現しやすいと思ったから。有名な水彩画家さんたちの風景画は、本当に透き通るようだったから。
 だけど、描きたいと思った夕暮れの絵は、中学の部活では描けなかった。挑戦はしてみた。けれど、いつも途中で筆を置いてしまった。──違う。これじゃない。空を染めたオレンジの光はもっと透き通っていた。なのに、金色にくすんで辺りの風景を優しくぼやけさせて……。
 力不足──描きたいものはしっかりと胸にあるのに、それを表現する技術が足りないのだと、思った。
 高校でも、私は美術部。絵を描くことは変わらずに好きだし、高校の部活でがんばって表現力を身につけたら、今度こそ私の夕暮れが描けるんじゃないかな……なんて期待している。
 今、私が藤棚のベンチでせっせとスケッチしているのは、夕暮れではなく遠くに見える海だけど。
 水平線の左側に半島を浮かべた初夏の海だ。空の青と海の青。心が伸び伸びするような景色で描きたくなってしまったのだ。
 スケッチはほぼ完成し、私は鉛筆を指にはさんで、ぼんやりと海を眺めた。満足と放心に心を半分ずつ浸しながら。
 下書きができたときは、いつもだいたいこんな感じだ。水彩絵の具で色づけし、本当に絵が完成して筆を置くときは満足と放心に、ほんのちょっぴりさみしさが加わる。私の作品だけれど、私のものじゃなくなる気がして。
 風が吹いた。風は、海の方角から吹いて、あごのラインで切り揃えた私の髪を、ふわ、と動かした。
 私の髪は少しクセがあって、色素が薄い。外国人みたいでステキだね、と羨ましがられたこともあったし、髪を染めているんじゃないか、と疑われたこともあった。
 長く伸ばしてふわふわと背中に垂らしていたその髪を短く切ってしまったのは、小学二年生の頃だ。珍しい色だからってふざけて引っ張る男子がいたり、腐ったワカメと笑う女子がいたりして、切ってしまった。
 子どもの頃は髪が茶色くても、成長するに従ってだんだん黒くなっていくものだ──という人もいたけれど、私の髪は高校生になっても色が薄いままだ。もう引っ張る男子も表立って茶色いワカメとからかう女子もいないと思うけれど、私は髪を伸ばさない。毛先ほど色素が薄いので、長く伸ばしたら、色の薄さが目立つだろう。私は他にも目立ってしまうことがあるので、そんなことで余計に人目を引きたくない。目立つ理由が、素敵な絵を描く、なんてことなら嬉しいけれど、私の評価は私の中身に触れる前で止まってしまう。
 ──木暮美(み)雨(う)? ああ、あの髪がめっちゃ茶色い、浅羽拓南(たくみ)のカノジョでしょ?
 女バレの掛け声が通り過ぎたあと、辺りはとても静かになっていた。半島を浮かべた海をスケッチした画用紙に、藤棚からこぼれ落ちる日差しがちらちら揺れる……。
 ──バサッ。
「……あっ」
 突然、風が強く吹いて、スケッチブックのページを躍らせた。はさんでおいたスケッチが二枚、三枚、ひらひらっと私の肩を越えて後ろに飛ばされた。
 私はあわてて立ち上がった。これ以上風にスケッチを持っていかれないように、急いでスケッチブックの上にペンケースを置いて重石にしてから、草の上をくるくると風に巻かれるスケッチを追いかけた。
 一枚、つかまえた。そして、もう一枚。……あと一枚?
 最後の一枚を探して、私は左を見て右を見る。辺りをうろうろする。見当たらない。遠くまで飛んでいってしまったのかな、と心配になる。
 そのときだった。低い、少しかすれた声が背中に触れた。
「これ、君の?」
 ふり返ると、思いがけない間近さにその人が立っていて。
 背の高い男子生徒だった。私の目に最初に映ったのは、夏服のオーバーシャツの胸ポケット。ポケットには紺の縁取り。紺は三年生の学年カラーだ。あわてて視線を上げると、その人と目が合った。額に落ちた黒い髪が、さら、と風に揺れて、その前髪の下に、鮮やかに澄んだ瞳があって私を見ていた。
 私は、とても驚いたような気持になって、思わず見つめ返していた。──その澄んだ瞳を。
 ……とても長い時間、その瞳を見つめていた気がする。まるで時間が凝固してしまったみたいに。
 でも、たぶんそれは、ほんの一瞬のことだったのだろう。
「君の?」
 もう一度、低い声がそう言った。私は、スケッチが差し出されているのにようやく気づいて、古い機械仕掛けの人形のようなぎこちない動作でそれを受け取った。無言で、その人の瞳から目を離せないままで。
 困ったような微笑みがその人の口許に浮かんだ。あとから考えたら、せっかくスケッチを拾ってあげたのに私がぼーとして無反応だったから戸惑ったのだろう、と想像できたけれど、そのときの私は──なぜだろう──その人を見つめていることしかできなかった。
「美術部?」
 耳に心地よい少しかすれた声で聞かれ、頷くと、がんばってね、と軽くつけたされた。気さくな先輩が後輩に声をかける調子で。
 私はそれにも反応できなかったのだけれど。
「しの」
 下の方から、誰かが誰かを呼ぶ声がした。反射的にそちらを向くと、斜面の下の小道にもうひとり男子生徒が立っていて、こちらを見上げていた。
 その人もすらりと背が高くて、上級生らしい雰囲気がした。私の位置からは胸ポケットの学年カラーまでは見えなかったけれど、きっと目の前の人と同じ三年生の紺色なのだろう。整った顔立ちで、無造作につんつんさせたおしゃれな短髪で、脇にバスケットボールを抱えていた。
 スケッチを拾ってくれた人が、『しの』という声に応じて私に背を向けていた。バスケットボールを持つ人のところへと、一直線に斜面を滑り降りた。そこに行くにはぐるりと回らなければならないU字カーブを、楽々とショートカットして。
 軽やかに斜面を降りていく後ろ姿を、私はまだ見つめていた。黒の学生ズボンと白いオーバーシャツのシンプルな夏の制服。やや長めの真っ黒な髪がひらりと跳ねて、一瞬、木漏れ日を明るく弾いた。
 とても端正な一枚の絵を眺めている感じがした。何て言えばいいだろう。……モノクロームの華やかさ。
 斜面を滑り降りたその人が下の小道に足を着けると、待っていた男子生徒がじゃれるような仕草でボールをその人に投げてきた。ボールを受け取って、その人は笑った。私に向けた後ろ姿は、男の子より男の人を感じさせる硬質なラインだったのに、笑った顔は小さな子どもみたいに無防備だった。ふたり並んで、丘の下へと歩き出す。
 スケッチを拾ってもらったのに、ありがとう、も、すみません、も、口にするのを忘れていた。ただその人を見つめて、その人が小道を下って行くのを見送っていた。

 大気が鋭くかんばしく澄んでいく、六月初めの午後だった。

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