楽園 ~きみのいる場所~
17.愛を取り戻すため



「――ねぇ! 聞いてるの!?」

 雑音でしかない甲高い声に、俺は歯を食いしばった。

「あの家政婦! 私に少しは運動しろとか言うのよ!? 偉そうに! 私は明堂家の大事な跡取りを妊娠しているのよ? 何かあったらどうするつもりなのかしら! 食事も、マズいし!!」

 うんざりだ。

 目の前の書類に集中できない。

 中東で反政府デモが起こり、輸送が遅れている。

 このままでは、多額の損失を出してしまう。

「あの家政婦はクビにして! もっとベテランの、雇い主に口答えなんかしない人を雇ってよ! あと、ベビーシッターも! 生まれてから決めたんじゃ遅いわ。ただでさえお腹が重くて眠れないんだから、生まれた後はゆっくり眠りたいの」



 なんとかして、納期に間に合わせなければ。



「悠久も! いい加減マンションに戻ってよ。身重の妻を一人にするなんて、夫婦仲が悪いと噂にでもなったらどうするのよ!」



 実際に悪いんだから問題はないだろう。



「子供の名前も考えなきゃ! お義父様にはつけさせないでよ。古臭い名前なんて嫌よ!」



 俺はキラキラネームの方がよほど嫌だが、関係ない。



 俺の子じゃないのだから。

「明堂貿易の後継者なのよ? 時代に合った、インパクトのある名前じゃなきゃ!」



 安心しろ。



 その子が明堂貿易を継ぐことはない。



 こんな会社、俺がぶっ潰してやるんだから――!!



 けたたましい機械音が鳴り響く。

「あ! ママだわ。じゃ、ね、悠久。早く戻って来てよ!?」

 萌花が押しかけてきて三十分間、俺は一言も発しなかった。

 いつも、そうだ。

 勝手に押しかけてきて、一人でベラベラと喚いて、帰って行く。

 実家でも持て余された萌花がマンションに戻ったのは、三週間前。俺が楽と再会し、別れを告げられた頃。

 楽に去られた俺は、仕事に没頭した。

 そうでもしなければ、息をすることすら忘れそうだった。

 間宮の家にも帰っていない。

 俺はビルから徒歩五分の場所にあるホテルで寝泊まりしていた。

 毎日、日付が変わるまで働き、ホテルに帰ってビールを飲み、寝る。

 がむしゃらに働いた。

 目的のためなら、倒れようが病気になろうが構わない。



 全ては、明堂貿易をぶっ潰すため――!



 復讐と呼べば格好いいかもしれないが、そんなに意義のあることじゃないのはわかっている。

 ただ、何もせずにはいられなかった。

 自由に、なりたかった。

 俺は受話器を取ると、中東担当部にかけた。

 現地の担当者と綿密な連絡を取り、何としても納期を間に合わせるように指示を出す。

 この積み荷が届けば、明堂貿易を傾かせることが出来る。

 悪魔に魂を売ってでも、この取引だけは成功させなければならない。

「――社長。副社長!」

 就任から三か月が経とうとしているのに、未だになれない呼び方に、俺はハッとした。

 秘書がドアの前に立っている。

「なんですか」と、俺は聞いた。

「藤ヶ谷様と仰る方がいらしていますが」

「藤ヶ谷?」

「はい。藤ヶ谷修平様です」

 ガタンッと勢いよく立ち上がると、キャスター付きの椅子が背後の壁にぶつかった。

「すぐにお通ししてください!」

 楽に、何かあったのかもしれない。

 楽が去った日。

 半日も呆けていた俺は、我に返ると真っ先に藤ヶ谷さんに電話をかけた。

 恥だなんだと言っている場合ではない。

 聞いてどうするかも考えられないまま、楽の居場所を聞いた。が、当然だが教えてもらえなかった。

『楽が自分の意思で明堂さんと別れたのならば、その意思を尊重します』

 何度電話をしても、そうとしか言われなかった。

 その彼が俺に会いに来たということは、楽に関することに違いない。

 背中に汗が滲む。
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