囚われのシンデレラ【完結】
1 落とした鍵

 
 大学1年の初春――。
 3月1日。真冬の寒さは抜けたものの、午前中の早い時間は、まだ頬に触れる風が冷たい。レッスン棟を出た瞬間に吹き抜けた風に、思わずコートの襟を立てる。つい先ほどまで、汗さえ浮かべていた身体が急速に冷えて行く。

この寒さの中、外に出て行くのはツライな――。

なんて言っている場合ではない。ただでさえ、ギリギリの時間だ。肩にリュックのように背負ったバイオリンケースのストラップを握り直し、覚悟を決めて走り出した。

 レッスン棟はよりにもよってキャンパスの一番奥にある。よって、正門までの距離は最長ということになる。

 ここ、聖ヶ丘(ひじりがおか)音楽大学に入学してそろそろ1年。ほぼ毎日、そのルートを通っている。最短ルートは熟知している。
 キャンパス内を通る歩道を途中から無視して、中庭を横切り垣根の隙間をかいくぐる。そして目の前に現れる講義棟の中を通過するのだ。スピード、無駄のない動き、俊敏さ。小学生男子にも負けない自信はある。

「あっ、あずさー! おはよう――」

講義棟の学生ラウンジ横を駆け抜けていると、私を呼ぶ声が耳に届いた。その声の主は、私と同じバイオリン専攻1年の村松奏音(むらまつかのん)だった。

「……って、春休みなのに、こんな時間からどこ行くの?」

立ち上がって私を見つめる奏音に、声を張り上げる。

「バイト! 今日から一つバイト増えるの。遅刻しそうだから、今、走ってるとこ!」

そう答えながらも足踏みは続ける。一度完全に止まってしまうと、トップスピードに戻すまでに時間がかかってしまう。

「ああ、この前言ってた、ホテルのラウンジの?」
「そう! 遅れそうだからもう行くね。じゃあ、またーっ!」
「頑張れー」
「おうよ」

握りこぶしを上げてそれに応え、すぐに前を向く。講義棟を出て正門目がけて全速力をしている間にも、登校して来る友人たちとすれ違った。

「早いね」
「朝一で自主練して、これからバイト」
「相変わらずバイト頑張るねー」
「じゃあね!」

似たような会話を繰り返しながら大学最寄り駅に着き、電車に乗り込んだ。ようやく一息ついた。

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