粉雪舞う白い世界で
粉雪と手袋と帰り道
「初めはちょっとした違和感があっただけなんです。」

私はテーブルの上のトレーに置かれた、しなびたフライドポテトに目を落とした。

「閉めておいた筈の郵便受けの扉がたまに開いていて、でも特に気にも留めていなかったんです。そしたらある日、私の部屋のドアノブにスーパーの袋がかかっていて、恐る恐る中身を見てみたら、電気料金や水道代の領収書がくしゃくしゃになって入っていたんです。これって誰かが持ち出したってことですよね?」

「・・・恐らく、そうだろうな。」

真剣な表情をした影山さんが、頬杖をしながら頷いた。

「そして次の日、私が捨てたゴミ袋の結び口が開かれたままになってゴミが散らかっているから自分で片付けてくれと、大家さんに叱られました。確認しに行くと、道端に私が捨てた生ゴミや・・・その・・・汚物とかが・・・」

私は自分の生理用ナプキンが荒らされたその時の恥ずかしさと気持ち悪さを思い出し、両手で顔を覆った。

「言いたくないことは言わなくていいよ。」

影山さんの落ち着いた声に私は涙を堪え、続きを話し始めた。

「とにかく・・・誰かが私のゴミを漁ったんだと思います。」

「・・・・・・。」

「さらに次の日からはドアの外に、食べ物が紙袋に入れて置かれるようになりました。初めは私がスーパーでよく買うチョコレート菓子が10個も紙袋に入っていました。お菓子だけではなく、よく買う冷凍食品やお茶が入っていたこともありました。そしてその紙袋には必ず便箋が添えられていて、そこには『召し上がれ』という一文が明朝体の文字でプリントアウトしてあるんです。」

「君の嗜好を知られているって訳か。」

「そのうち夜になると、毎日のように部屋のドアを叩かれるようになりました。最初はそっとドアを開けていちいち確認していたんですけど、最近は部屋の奥で耳を塞いで音が鳴らなくなるのを待ってます・・・もう怖くて、どうにかなりそうなんです・・・。」

「そういう時は絶対にドアを開けては駄目だよ。」

影山さんのいつになく厳しい口調に、私は肩をすぼめて視線を落とした。

「しかし、ストーカー被害か・・・。もう警察には言った?」

「近所にある交番へ駆け込みました。そこのおまわりさんはパトロールを強化してくれるとは言ってくれたけど、その後もドアは叩かれていて・・・。」

今のところそれ以外の被害は受けていない。

けれどいつでもどこでも、見知らぬ誰かが私を見張っているような気がして、怖くて怖くて仕方がない。

こうして話していても、恐怖で身体の芯が凍り付いたようで、小刻みに揺れる震えが止まらなかった。

「状況はわかった。・・・とりあえず君の部屋へ俺を連れて行ってくれないか?」

「・・・え?」

私がぽかんとしていると、影山さんはバッグを背負い、席を立った。

「君の住んでいるアパートの環境を知りたい。それから今後の為に対策を練ろう。」

「でも、そこまでしてもらうわけには・・・」

ただ話を聞いてもらうだけのつもりだった私は、思いがけない影山さんの申し出に不甲斐ない気持ちで恐縮してしまった。

「そんな危険な場所へ、心が弱っている君を一人で帰らせることなんて出来る訳がないだろ?」

それでも固まっている私の手を影山さんがそっと握りしめた。

「最近知り合ったばかりの男を部屋にあげることに躊躇する気持ちはわかる。でも俺は君に何もしない。信じて欲しい。」

「・・・・・・。」

「俺を信用出来ない?」

影山さんの少し困ったような眼差しに、私は大きく首を横に振った。

「ううん。そうじゃない。影山さんのこと、信じてる。ただ・・・一人暮らしをして誰かに親身になってもらえたことなんて初めてで、びっくりして・・・。」

自分をがんじがらめにしていた大きな不安がほどけていく。

この2年間、誰にも頼らないと決めて、肩ひじ張って生きてきた。

でも突然ストーカーが現れて、私の心の中で張りつめていたその細い糸はプツンと切れてしまい、動かない操り人形のようになっていた。

影山さんの存在は、荒波に溺れている私に投げ出された救命具のように思えた。




自転車を引きながら私は影山さんと並んでアパートまでの道のりを歩いた。

いつも家に帰ることを怯え不安を抱えながら通り過ぎるこの道も、隣に影山さんがいるということだけで、力強く歩くことが出来た。

知らぬ間に粉雪が降りだしていた。

「あ、雪!」

私が夜空を見上げると、影山さんもポケットに入れていた手を挙げて、小さな雪の粒を掴んだ。

「粉雪だな。」

影山さんの赤く冷たそうな手を見て、私は片方の手袋を外した。

「影山さん、これ使って下さい。」

差し出された手袋を見て、影山さんは苦笑した。

「いいよ。田山さんの手が冷たくなっちゃうだろ?君の手は沢山の人を癒すのだから大切にしなきゃ。」

「いいの。今、私の心はポカポカと温かいから。お願いだから使って。」

私は自転車を止めると、無理やり影山さんの手に手袋を被せた。

「ありがとう。君とお揃いだね。」

そう言って影山さんは手袋をはめた手を、私の手袋をはめた手の平に合わせた。

「この手袋、自分で手作りしたの。大きく作り過ぎちゃって。」

「へえ。器用なんだな。」

「全然器用なんかじゃないの。編み物クラブでも私は一番下手だったし。」

「でもこの手作りの手袋は、いま、たしかに俺の手を温めてくれているよ?」

影山さんは手袋をした手を、結んだりひらいたりしてみせた。

アパートが近づくにつれて街灯は少なくなり、暗い夜道を黙々と歩いた。

「こんな暗い道を毎日一人で通っているの?」

「大丈夫ですよ。自転車だから。」

「いや。全然大丈夫じゃない。」

影山さんが不機嫌そうな顔で言った。

やっとアパートに到着すると自転車を止めた。

「・・・まさかこのアパートじゃないよね?」

「そのまさかです。」

影山さんは私の住んでいるアパートのボロさ加減に愕然とした表情を見せた。

きっと心の中でドン引きしているのだろう。

木造の壁にはいくつものヒビが入り、2階へ上がる手すりも塗装が剥げている。

でも私の持っているお金では一か月3万円のこのアパートしか選択肢がなかったのだ。

「これが郵便受け?」

元は赤かったであろう錆びた郵便受けを指さした影山さんは、付けられた南京錠を見てため息をついた。

「こんなおもちゃみたいな鍵じゃ、すぐに外されるよ。」

「・・・そうですか。」

「部屋の中に入れてもらっていい?」

「はい。」

私は影山さんの前を歩きながら階段を昇り、自分の部屋である203号室の粗末なドアの鍵を開けた。

「鍵を見せて。」

私は言われた通り、影山さんに持っていた鍵を渡した。

「随分旧型な鍵だな。これじゃピッキングしてくれと言っているようなものだ。」

「ピッキング?」

「空き巣の手口のひとつで、素人でも練習すればできるようになる。特にここの鍵は特殊な工具がなくても針金で代用出来る古いものだ。いつ部屋の中に押し入られてもおかしくない。」

影山さんの言葉に私は震えあがった。

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