禁断×契約×偽装×策略
第二章 密談契約
ふっと気配を感じて意識が動いた。視界に見慣れない模様があることに気づき、ここがどこなのかわからず混乱した。それから目を動かして周囲を確かめる。入ってくる情報に、ようやく宇條家、雪乃に与えられた部屋であることを認識した。
(そうだった……いきなり連れてこられて、学校にも行くなと言われて、閉じ込められた……)
実際は、出歩く時にはボディーガードをつける、とのことだが、窮屈すぎて到底受け入れられない。考えれば考えるほどため息が出てくる。
サイドテーブルに置いているスマートフォンを取り、母と写した画像を展開した。
(お母さん……)
父のことは知りたかった。ただ知りたかっただけだ。実康を父だと認めてくれさえすればよかった。別に一緒に住みたいとか、家族らしいことをしてほしいとか、そんなことはこれっぽっちも考えていない。ただ自分に明確な父がいるということを自分自身に知らしめたかっただけだ。
(こんなこと、全然望んでいない。あと半年、大学さえ卒業したら、あとはもう自分で全部するつもりだった。学費を甘えることがいけないなら、働いて返すから。こんなの、ひどすぎる)
脳裏に貴哉の顔が浮かぶ。
ずっと好きだったのに。想いがかなったのに。兄と妹だったなんて。そしてあの時のことが胸を締めつける。
これは罰だ。仏壇の、母の遺影の前で、性行為などという最悪の背徳を行った自分への罰だ。
(苦しい)
そう思った瞬間、胃から強烈なものが込み上げてきて、雪乃は咄嗟に口を押さえた。
「うぅっ」
ぐっとこらえていると、視界が滲んでくる。これほど嫌悪すべき事柄なのに、貴哉を憎めない自分がいる。
知らなかったのだから――そう、自分を慰めてしまう。
知らないままでいたかった――そう、願ってしまう。
両手で顔を覆って蹲っていると、コンコン、と扉を叩く音がした。
「お嬢様、朝食の用意が調っておりますが、お目覚めでしょうか」
咄嗟に、お嬢様!? と叫びそうになって踏みとどまる。そして声が裏返らないよう慎重に言葉を発した。
「すぐに行きます」
「かしこまりました」
足音が遠ざかっていく。雪乃は慌てて起き上がり、着替えて隣のパウダールームに向かった。まるでホテルのような造りで、バス&トイレも設置された六畳ほどの空間だ。壁紙も白地に淡いピンクの花柄でおしゃれで可愛い。洗面台に並んでいる化粧品はブランドもので揃えられている。
雪乃はタオルで顔を拭きながら、さっきのハウスキーパーの言葉を思いだした。
(お嬢様って……なんか恥ずかしいどころか、薄ら寒い気がする。それに、愛人の子にはいてほしくないだろうって思うんだけど。でも、雇われている人だから、そんなの関係ないのかな)
貴哉から渡された書類には、三名の顔写真と名前があり、その三名以外は部屋に入れてはならないと言っていた。京香の息がかかったハウスキーパーなのだろう。
いったいどれだけ危険なのかと思わされる。今時、愛人の子の命を狙い、殺そうなどと思うものだろうか。
(単に追い出したいってのは、アリかもしれないけど)
タオルを元の位置に戻し、雪乃はパウダールームを出てダイニングルームに向かった。ダイニングルームにはまだ誰も来ていなかった。
(よかった、遅れてなかった)
昨夜、夕食の時に座った席と同じ場所に腰を下ろした、その時。
「ひゃっ」
脇からなにかが飛んできて、頬、それから肩や胸元がひやっとする。驚いてその方向を向くと、ハウスキーパーの女がコップを持っていた。
「え……」
顎を突き出し、上から見下ろすように雪乃を睨んでいる。
「あの」
後方からガタンと音がして、足音が聞こえる。ハウスキーパーのその女はハッとしたように顔を動かし、雪乃の横にかがみ込んだ。
「申し訳ございません! 手が滑ってしまって!」
足音に反応してハウスキーパーがポケットから取り出したハンカチを雪乃に押しつけてきた。それから胸元や腹部を拭いて続けて叫ぶ。
「タオルをお持ちいたします!」
ぱっと身を翻してパタパタと去っていく。
「どうしたんだ?」
呆然としている雪乃は、実康の声に目を瞬き、顔を上げた。
「あ、えっと、水がかかってしまって」
実康の後ろには貴哉もいた。視界に入ったので自然と視線が貴哉に向くと、彼は顔を顰めていた。
「濡れたのか? 着替えてきたらどうだ」
「そんなにたくさんでは」
そこに、パタパタとまた慌ただしい足音が近づいてくる。
「お嬢様、申し訳ございませんでした。タオルをお持ちいたしました」
先ほどのハウスキーパーが戻ってきてタオルを手渡してくるのを受け取り、濡れた部分を拭くものの、もうすっかりしみ込んでいてたいした役にも立たない。雪乃は無言のまま彼女の胸元を見た。名札には津田とある。
津田は何度も頭を下げながら去っていった。ぼんやり見送る雪乃に対し、貴哉は鋭い目で睨んでいる。実康は伏し目がちに首を左右に振っていた。
「陰湿だな。雪乃、くれぐれも気をつけろ」
貴哉が真顔で言うが、その言葉は雪乃の心には響かなかった。
(どう気をつけろというの? いつまで気をつけ続けなければいけないの? なにも教えてくれなのに、そんなこと言われても困る)
昨日来たばかりなのだ。それでこれなら、別の場所に移動させてほしい。こんなところ、一分一秒だっていたくない。
雪乃が黙り込んで返事をしなかったからか、貴哉は座ってからも顔を覗き込んできた。
「聞いているか?」
「……聞いています。だったら」
言いかけ、横にハウスキーパーが立ったので雪乃は口を閉じて、その人物を見上げた。
津田とは違う女が立っている。そしてその女は、書類のあった三名のうちの一人だった。胸元の名札に『各務』とあり、記憶の名前と一致してほっとした。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
大皿にこんもりと形のいいオムレツ、二種類の生ハム、レタスとトマトのサラダ、ニンジンのグラッセが載っている。もう一皿にはクロワッサンとブリオッシュ。飲み物はミネラルウォーターとオレンジジュースだ。
高級ホテルの朝食並みで驚いた。
「コーヒーと紅茶、どちらがよろしいですか?」
「えーっと、紅茶でお願いします」
「レモンがいいですか? ミルクになさいますか?」
「ストレートでいいです。お砂糖もいりません」
「かしこまりました。おかわりはいくらでもございますので、なんなりとお申し付けください」
各務はそう言って会釈し、去っていった。
なんだか本当に高級ホテルのようで緊張する。雪乃はオレンジジュースのグラスを手に取って口をつけた。
(おいしい)
普段飲むオレンジジュースと味が違う気がする。高級品だからだろうか。そう思ってグラスを見ていると、各務が戻ってきてティーカップを置いた。
「どうかなさいました?」
「……おいしいなと思って」
「バレンシアオレンジですよ。甘さと酸味のバランスがいいので、とてもおいしいと思います」
バレンシアオレンジと言われて納得した。
次にプルプルのオムレツにスプーンを入れると、中からとろりと半熟の玉子が流れてきて見るからにおいしそうだ。すくって食べたら、想像以上においしかった。
どんなに不愉快なことがあっても、人間、おいしいものを口にしたら幸せな気持ちになれるものなのだな、と思った。
次に生ハムとトマト。生ハムの塩味にトマトの甘さが合っていて驚いた。よくメロンに生ハムが乗っていたりするが、トマトでも合うとは。
クロワッサンやブリオッシュもおいしくて、雪乃はぺろりと平らげた。見た時は多いと思ったのに。
ほっと息をつき、ティーカップに手を伸ばした時だった。足音がして、京香が姿を現した。
一気に部屋の空気が変わった。ピリピリとした緊張が走る。雪乃は思わず生唾を飲み込んで、居住まいをただした。
「おはようございます」
腰を下ろす京香に声をかける。京香が雪乃に視線を向けるが、その目はどこをどう見ても面倒くさそうな感じだというのに、目が合うとにっこり微笑んだ。
「おはよう、雪乃さん。よく眠れた?」
「はい」
「そう、それはよかったわ。無理やり連れてこられて不安だったでしょうに。こわくてろくに眠れなかったのではないかしらって心配したけど、無用だったようね」
「――――」
言われてドキリと肩が震えた。
(返事を、間違えた)
ここがよくない場所だと思わせたくないがために同意したけれど、それはふてぶてしい女である、という印象を与えてしまったようだ。失敗したと思っても、もう遅い。
(そうだった……いきなり連れてこられて、学校にも行くなと言われて、閉じ込められた……)
実際は、出歩く時にはボディーガードをつける、とのことだが、窮屈すぎて到底受け入れられない。考えれば考えるほどため息が出てくる。
サイドテーブルに置いているスマートフォンを取り、母と写した画像を展開した。
(お母さん……)
父のことは知りたかった。ただ知りたかっただけだ。実康を父だと認めてくれさえすればよかった。別に一緒に住みたいとか、家族らしいことをしてほしいとか、そんなことはこれっぽっちも考えていない。ただ自分に明確な父がいるということを自分自身に知らしめたかっただけだ。
(こんなこと、全然望んでいない。あと半年、大学さえ卒業したら、あとはもう自分で全部するつもりだった。学費を甘えることがいけないなら、働いて返すから。こんなの、ひどすぎる)
脳裏に貴哉の顔が浮かぶ。
ずっと好きだったのに。想いがかなったのに。兄と妹だったなんて。そしてあの時のことが胸を締めつける。
これは罰だ。仏壇の、母の遺影の前で、性行為などという最悪の背徳を行った自分への罰だ。
(苦しい)
そう思った瞬間、胃から強烈なものが込み上げてきて、雪乃は咄嗟に口を押さえた。
「うぅっ」
ぐっとこらえていると、視界が滲んでくる。これほど嫌悪すべき事柄なのに、貴哉を憎めない自分がいる。
知らなかったのだから――そう、自分を慰めてしまう。
知らないままでいたかった――そう、願ってしまう。
両手で顔を覆って蹲っていると、コンコン、と扉を叩く音がした。
「お嬢様、朝食の用意が調っておりますが、お目覚めでしょうか」
咄嗟に、お嬢様!? と叫びそうになって踏みとどまる。そして声が裏返らないよう慎重に言葉を発した。
「すぐに行きます」
「かしこまりました」
足音が遠ざかっていく。雪乃は慌てて起き上がり、着替えて隣のパウダールームに向かった。まるでホテルのような造りで、バス&トイレも設置された六畳ほどの空間だ。壁紙も白地に淡いピンクの花柄でおしゃれで可愛い。洗面台に並んでいる化粧品はブランドもので揃えられている。
雪乃はタオルで顔を拭きながら、さっきのハウスキーパーの言葉を思いだした。
(お嬢様って……なんか恥ずかしいどころか、薄ら寒い気がする。それに、愛人の子にはいてほしくないだろうって思うんだけど。でも、雇われている人だから、そんなの関係ないのかな)
貴哉から渡された書類には、三名の顔写真と名前があり、その三名以外は部屋に入れてはならないと言っていた。京香の息がかかったハウスキーパーなのだろう。
いったいどれだけ危険なのかと思わされる。今時、愛人の子の命を狙い、殺そうなどと思うものだろうか。
(単に追い出したいってのは、アリかもしれないけど)
タオルを元の位置に戻し、雪乃はパウダールームを出てダイニングルームに向かった。ダイニングルームにはまだ誰も来ていなかった。
(よかった、遅れてなかった)
昨夜、夕食の時に座った席と同じ場所に腰を下ろした、その時。
「ひゃっ」
脇からなにかが飛んできて、頬、それから肩や胸元がひやっとする。驚いてその方向を向くと、ハウスキーパーの女がコップを持っていた。
「え……」
顎を突き出し、上から見下ろすように雪乃を睨んでいる。
「あの」
後方からガタンと音がして、足音が聞こえる。ハウスキーパーのその女はハッとしたように顔を動かし、雪乃の横にかがみ込んだ。
「申し訳ございません! 手が滑ってしまって!」
足音に反応してハウスキーパーがポケットから取り出したハンカチを雪乃に押しつけてきた。それから胸元や腹部を拭いて続けて叫ぶ。
「タオルをお持ちいたします!」
ぱっと身を翻してパタパタと去っていく。
「どうしたんだ?」
呆然としている雪乃は、実康の声に目を瞬き、顔を上げた。
「あ、えっと、水がかかってしまって」
実康の後ろには貴哉もいた。視界に入ったので自然と視線が貴哉に向くと、彼は顔を顰めていた。
「濡れたのか? 着替えてきたらどうだ」
「そんなにたくさんでは」
そこに、パタパタとまた慌ただしい足音が近づいてくる。
「お嬢様、申し訳ございませんでした。タオルをお持ちいたしました」
先ほどのハウスキーパーが戻ってきてタオルを手渡してくるのを受け取り、濡れた部分を拭くものの、もうすっかりしみ込んでいてたいした役にも立たない。雪乃は無言のまま彼女の胸元を見た。名札には津田とある。
津田は何度も頭を下げながら去っていった。ぼんやり見送る雪乃に対し、貴哉は鋭い目で睨んでいる。実康は伏し目がちに首を左右に振っていた。
「陰湿だな。雪乃、くれぐれも気をつけろ」
貴哉が真顔で言うが、その言葉は雪乃の心には響かなかった。
(どう気をつけろというの? いつまで気をつけ続けなければいけないの? なにも教えてくれなのに、そんなこと言われても困る)
昨日来たばかりなのだ。それでこれなら、別の場所に移動させてほしい。こんなところ、一分一秒だっていたくない。
雪乃が黙り込んで返事をしなかったからか、貴哉は座ってからも顔を覗き込んできた。
「聞いているか?」
「……聞いています。だったら」
言いかけ、横にハウスキーパーが立ったので雪乃は口を閉じて、その人物を見上げた。
津田とは違う女が立っている。そしてその女は、書類のあった三名のうちの一人だった。胸元の名札に『各務』とあり、記憶の名前と一致してほっとした。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
大皿にこんもりと形のいいオムレツ、二種類の生ハム、レタスとトマトのサラダ、ニンジンのグラッセが載っている。もう一皿にはクロワッサンとブリオッシュ。飲み物はミネラルウォーターとオレンジジュースだ。
高級ホテルの朝食並みで驚いた。
「コーヒーと紅茶、どちらがよろしいですか?」
「えーっと、紅茶でお願いします」
「レモンがいいですか? ミルクになさいますか?」
「ストレートでいいです。お砂糖もいりません」
「かしこまりました。おかわりはいくらでもございますので、なんなりとお申し付けください」
各務はそう言って会釈し、去っていった。
なんだか本当に高級ホテルのようで緊張する。雪乃はオレンジジュースのグラスを手に取って口をつけた。
(おいしい)
普段飲むオレンジジュースと味が違う気がする。高級品だからだろうか。そう思ってグラスを見ていると、各務が戻ってきてティーカップを置いた。
「どうかなさいました?」
「……おいしいなと思って」
「バレンシアオレンジですよ。甘さと酸味のバランスがいいので、とてもおいしいと思います」
バレンシアオレンジと言われて納得した。
次にプルプルのオムレツにスプーンを入れると、中からとろりと半熟の玉子が流れてきて見るからにおいしそうだ。すくって食べたら、想像以上においしかった。
どんなに不愉快なことがあっても、人間、おいしいものを口にしたら幸せな気持ちになれるものなのだな、と思った。
次に生ハムとトマト。生ハムの塩味にトマトの甘さが合っていて驚いた。よくメロンに生ハムが乗っていたりするが、トマトでも合うとは。
クロワッサンやブリオッシュもおいしくて、雪乃はぺろりと平らげた。見た時は多いと思ったのに。
ほっと息をつき、ティーカップに手を伸ばした時だった。足音がして、京香が姿を現した。
一気に部屋の空気が変わった。ピリピリとした緊張が走る。雪乃は思わず生唾を飲み込んで、居住まいをただした。
「おはようございます」
腰を下ろす京香に声をかける。京香が雪乃に視線を向けるが、その目はどこをどう見ても面倒くさそうな感じだというのに、目が合うとにっこり微笑んだ。
「おはよう、雪乃さん。よく眠れた?」
「はい」
「そう、それはよかったわ。無理やり連れてこられて不安だったでしょうに。こわくてろくに眠れなかったのではないかしらって心配したけど、無用だったようね」
「――――」
言われてドキリと肩が震えた。
(返事を、間違えた)
ここがよくない場所だと思わせたくないがために同意したけれど、それはふてぶてしい女である、という印象を与えてしまったようだ。失敗したと思っても、もう遅い。