紫の香りに愛されて ゆきずりのコンサルタントに依頼したのは溺愛案件なんかじゃなかったんですけど
第7章 私たちの答え
 東京駅から乗ったタクシーが真宮ホテルのエントランスに着いた。
 ドアを開けたスタッフが私の姿を見て困惑していた。
「これは……、お嬢様でしたか」
 作業服姿で気がつかなかったらしい。
 そういえば、髪もショートだもんね。
「ありがとうございます。荷物はありませんので」
 父にはメールで知らせてあって、『ホテルで待つ』と返信があった。
 もう十時を過ぎている。
 学生の頃なら、母親に怒鳴られていただろう。
 どんなに正当な理由があっても門限破りは許されなかった。
 口答えをするな。
 それが我が家のルールだった。
 ロビーでコンシェルジュの宮村さんが待ち構えていた。
「こんばんは」
「お二人はラウンジでお待ちです」
「ありがとうございます。一人で行けます」
 バータイムのラウンジは席が埋まっていて、都会的な時間を過ごす上品な人たちによって醸し出される華やいだ雰囲気に包まれていた。
 作業服姿の私は明らかに場違いだった。
 受付で一瞬止められそうになったけど、私の背後に着いてきていた宮村さんのおかげで係の人にも私だと分かってもらえたようだ。
「奥様は個室でお待ちです」
 係の人に引き継いでもらってラウンジ奥の個室に案内される。
「こちらです。ただいまお茶をお持ちいたしますので、中にお入りください」
「ありがとうございます」
 ドアをノックして入ると、ライトグレーのスーツを着た母が奥のソファに座っていた。
 能面のように冷たい表情で、私を見ても反応を示さない。
 私は無意識のうちにショルダーバッグをぎゅっと抱きしめていた。
「ただいま」
「お、おう、お帰り」
 背中を向けていた父が振り向きながら腰を浮かせ、隣を空けるように少しずれて座り直した。
 父と並んでソファに腰掛け、ショルダーバッグから離婚届を出して広げる。
「証人欄に署名をお願いします」
「なんでまたいきなり」
 父は私と母を交互に見ながら真意を探ろうとしていた。
「どうして久利生くんの署名があるんだ?」
「離婚を承諾しているから」と、私は嘘をついた。
 だけど、それが本当か嘘なのかなんてどうでもいい。
 署名をした紙を渡された以上、それをどう使うかは私の自由だ。
 それをフェアというなら、あの人の言うとおりだし、今さらアンフェアというのなら、こんな書類を不用意に渡すべきではなかっただけだ。
「何があったのか言ってみなさい」
 父の視線が私の横顔に刺さる。
「言いたくありません」
 父は絶句して膝の上に手を置いたまま固まってしまった。
 窓のない個室が息苦しくなる。
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