甘く奪って、離さない
13話
13話―I liked you―
〇(回想)まりなの子供の頃
小学三年生のまりな。夕方、マンションの自宅の玄関外でランドセルを背負ったまま泣いている。
そこへ中学の制服を着た渉が近付いてきて声を掛けた。
渉「どうしたの?」
まりな「おうちの鍵をおうちの中に忘れちゃったの」
まりなは鍵を持って登校するのを忘れてしまった。いつもならランドセルの中にきちんと入れておくのに。
母は仕事に出掛けていて不在。このまま夜遅くまでは戻らないだろう。
学校から帰ってきたまりなは鍵のかかった自宅に入れなくて、どうしたらいいのかわからずにひとりで泣いていた。
そのとき声を掛けてくれたのが隣に住む中学生の渉だった。
渉「お母さんは?」
まりな「仕事で夜まで帰ってこない」
渉「そっか。困ったね」
なにかを考えているようなそぶりを見せたあと、渉はハッと閃いたようでまりなに提案する。
渉「それじゃあ僕の家においでよ。すぐ隣だから」
まりなに優しく手を差し伸べる渉。少し迷ったけれどまりなはその手を取った。
まりなを家の中に招いた渉は、まりなから母親のスマホの番号を聞いて電話を掛けた。仕事中だけど繋がり、鍵を忘れたまりなを預かっていることを説明。
母親は仕事が終わるまでは帰れないので、それまでは渉がまりなを預かることになった。
渉「お腹すいてない?」
キッチンでエプロンを着けている渉。
渉「オムライス食べる?」
渉の家も母子家庭で母親は仕事で帰りが遅いため夕食は渉が作る日が多い。だから今日は、まりなの分も作ってふたりで食べることにした。
まりな「おいしい。お母さんのよりも」
渉の作ったオムライスをぱくぱくと食べるまりな。その頃にはもう涙は止まっていて、優しくて穏やかな性格の渉にもすっかり懐いていた。
まりな「渉くん。また食べにきてもいい?」
渉「もちろん。いつでもどぞ」
それからまりなはたまに渉の家に遊びに行くようになった。
〇(回想終了)
〇 まりなのマンション・自室(夜)
ベッドに仰向けに寝転がりながら渉との出会いを思い出していたまりな。
まりな(気付いたら好きになってたんだよね)
ふと立ち上がり、学習机に向かう。引き出しから写真を取り出して見つめた。
一年前、渉がアメリカの大学に留学することになったとき、見送りに出掛けた空港で一緒に撮った写真だ。
まりな(あのとき本当は告白しようと思ったんだけどな)
(フラれるのがこわくて言えなかったんだよね)
渉から妹のような存在としか思われていないことに気付いていたから、フラれる可能性の方が高くてこわかった。もともと望みのない片想いだとわかっていたのだ。
まりな(失恋なんてとっくの前にもうしてた)
(渉くんのこと忘れられたと思ってたのに)
渉がアメリカに渡って会えなくなってからのまりなは不毛な恋を諦めようとした。少しずつ渉への気持ちも薄らいでいたのだ。
まりな(でも、顔を見ちゃうとダメだな……)
〇(回想)数日前の渉と会った日
レストランで向かい合って座るまりなと渉。プレゼントしてもらったネックレスにまりなが喜んでいると、渉がふと口を開いた。
渉「まりちゃん。実は僕、結婚するんだ」
まりな「え」
弾かれたように顔を上げて渉を見つめるまりな。
渉「今すぐにってわけじゃなくて向こうの大学を卒業してからなんだけど。相手は同じ日本からの留学生の女の子で、一時帰国したのはお互いの親に挨拶をするためなんだよね」
まりな「そうなんだ」
まりな(渉くんが結婚……)
動揺しているまりな。俯いてぎゅっと唇を噛みしめてから顔を上げると、頑張って笑顔を作った。
まりな「おめでとう、渉くん」
そのときはなんとか笑顔を保てた。
でも、レストランを出て渉と別れたあと、自宅まで歩いて帰りながらまりなの目からは自然と涙がこぼれていた。
ようやくその涙が引っ込んだ頃、マンションの前で晴史に会ったのだ。
〇(回想終了)
ぼんやりと立ち尽くしながら渉との写真を見つめるまりな。
開けたままの窓からは風が入り込み、まりなの髪をさらさらと揺らした。
ふと視線が学習机に置かれたスマホに向かう。
まりな(そういえば晴史くんどうしてるかな)
(あれから会ってないけど……)
晴史と最後に会った日に言われた言葉を思い出す。
〇(回想)
晴史「これがあるとまりな先輩があいつのこと忘れられないから」
〇(回想終了)
まりな(だからって捨てなくてもいいのに)
渉から貰ったネックレスを晴史が川に投げてしまった。そんな身勝手な行動に一瞬だけ腹が立ったが、その怒りがしゅるしゅると萎んでいく。
まりな(でも晴史くんの言っていることもわかる)
(ネックレスを見るたびに渉くんを思い出しちゃうよね)
(あれでよかったのかも……)
けれど、頭を大きく横に振る。
まりな(違う違う。どんな理由があろうと人のものを勝手に捨てるのはよくない)
(それに川に捨てるなんてダメでしょ)
(晴史くんに会ったら注意しないと!)
そこまで考えて気付いてしまった。
まりな(そっか……)
(私、〝顔なんて見たくない〟って言ったんだ)
だから晴史はまりなに会いに来ないのだろう。
まりなから会いに行けば会ってくれるだろうか。
でも自分から晴史を遠ざけておいてそれは都合がいいのかもしれない。
まりなの視線が再びスマホに向かう。するとタイミングよくブルっと短く振動してメッセージの受信を知らせた。
まりな(もしかして晴史くん⁉)
そう期待している自分がいる。まりなは素早くスマホを手に取った。
まりな「渉くんだ……」
けれど、メッセージを送ってきたのは渉だった。
晴史からの連絡ではなくてしょんぼりしながら渉からのメッセージを確認する。そこにはアメリカに戻る日付と搭乗予定の飛行機の時間が書かれていた。
スマホの画面を見つめながらなにかを考えるまりな。
しばらくしてから、ある決意をした。
スマホを握り締めて、渉宛てにメッセージを送る。
まりな「今度こそちゃんと終わらせよう」
〇 空港(数日後の土曜日、昼)
旅行客などで溢れている国際線ターミナル。
あまり来ない場所なので迷いながらきょろきょろとあたりを見回してロビーを歩いていたまりなに渉の声が聞こえた。
渉「まりちゃんこっち!」
手を振っている渉のもとへ駆け寄るまりな。
まりな「渉くんごめん。迷っちゃった。時間大丈夫?」
渉「大丈夫だよ」
まりなはこの場所で渉と待ち合わせをしていた。
まりな「彼女さんは?」
渉「お土産見に行ってる」
まりな「そっか」
まりな(よかった。ふたりだけで話したかったから)
渉「話って?」
まりな「うん。あのね、渉くん私……」
続きの言葉がなかなか言えない。
まりな「えっと、あの、私……」
言葉に詰まっているまりなを渉が優しい表情で待ってくれている。
まりな(ダメだ、言えない。あのときと一緒だ)
(今度こそ好きって告白しようと思ったのに)
(それで、きっぱりと振ってもらおうって……)
一年前、渉がアメリカに旅立つときも今と同じ状況だった。
なかなか想いを伝えられず、こうして言葉に詰まってしまい結局なにも言えないまま渉を見送った。
まりな(今日はちゃんと言おうって決めたんだ)
まりなは勇気を振り絞り、口を開いた。
まりな「渉くん。私、渉くんのこと――」
けれど〝好き〟と伝えようとした瞬間、まりなの頭に浮かんだのは晴史だった。
『俺が好きなのはまりな先輩』、『まりな先輩に好きって言ってもらえるまで俺頑張るから』、『まりな先輩が笑ってくれたら、それが一番うれしいかな』、『じゃあ答え出るの待ってる』
いつもまっすぐにまりなだけを思ってくれている晴史を思い出す。
まりな(晴史くん……)
次に思い出したのは遊園地の帰り道。晴史と手を繋いでいるところを渉に見られたまりなはとっさに晴史の手を離してしまった。そのときの少し悲しそうな表情を見せた晴史を思い出して胸がきゅっと切なくなる。
まりな(私、やっぱり晴史くんのこと……)
渉「まりちゃん?」
名前を呼ばれてハッとなり、まりなは渉を見た。
まりな(渉くんのことは好き)
(でもそれは恋だったのかな)
今となってみれば渉への気持ちが〝恋〟だったのかわからない。
子供の頃、困っていたまりなを優しく助けてくれた年上の渉に憧れのような感情を抱いていたのかもしれない。
渉がまりなを本当の妹のようにかわいがっていたように、まりなも渉を本当の兄のように慕っていたのだ。
それはたぶん〝恋〟とは違う。
渉の結婚報告のあとに泣いてしまったのは、失恋したからではなく、大好きな兄を取られてしまった喪失感から……。
まりな(そうじゃなくて、大好きなお兄ちゃんだからこそ、渉くんの幸せを妹としてよろこばないと)
そう気付いた今、まりなの気持ちは晴れやかだ。
自分を落ち着かせるために小さく深呼吸をしてから改めて渉を見つめる。それからにっこりと笑った。
まりな「渉くん、幸せになってね」
今のまりなが渉に伝えるべき言葉はそれだと思った。
まりな(今度はちゃんと笑えてる気がする)
(だって心からそう思うから)
渉「ありがとうまりちゃん。まりちゃんも幸せにね」
まりな「うん」
渉「まりちゃんは違うって言ってたけど、この前一緒に歩いていた男の子彼氏でしょ」
まりな「えっ」
きょとんとした顔を見せるまりな。
まりな(この前って……もしかして晴史くんのこと?)
遊園地からの帰り道。晴史と一緒に歩いていたときに渉と会った日を思い出す。
まりなは顔の前で両手を大きく横に振った。
まりな「違うよ。晴史くんはまだ彼氏じゃない」
渉「そっか。でも〝まだ〟ってことは、これからそうなる可能性があるかもしれないってことだよね。僕にはそう聞こえたけど」
渉が微笑む。
渉「あの男の子と手を繋いでいたときのまりちゃんすごくいい顔してたよ。そうだな……僕の作ったオムライスを美味しいって食べてくれるときよりも何百倍も幸せそうな顔だった」
渉の言葉がまりなの心に強く響いた。
自分では気が付かなったけれど、晴史と一緒にいるときのまりなはそんな表情をしていたらしい。
渉「じゃあねまりちゃん。そろそろ行かないと」
まりなに向かって手を振りながら渉が背を向ける。そしてゆっくりと歩き出した。
まりな「またね、渉くん」
まりなも渉に手を振る。一度だけ振り返った渉がまりなに手を振ってから背中を向けた。
そこにひとりの女性が駆け寄ってきて渉の腕に抱き付くのが見えた。楽しそうに話すふたりの姿におそらく彼女が渉の結婚相手なのだろうと気が付くまりな。
仲睦まじいふたりを見てもまりなはもう傷つかない。穏やかな気持ちで、その表情はすっきりとしていた。
まりな(よしっ。帰ろう)
まりなはくるんと後ろを振り返った。すると、少し離れた場所に立っている背の高い男子を見つけて目を見開く。
まりな「えっ……」
そこにいるのは晴史だった。
晴史もまたまりなに気付いたようで〝どうしてここに?〟とでも言いたそうに目を丸くさせている。
まさか空港で会うとは思わずお互いに驚いて固まってしまった。
すると晴史のもとへひとりの女性が駆け寄ってくる。
年齢は四十代ぐらい。緩くウェーブのかかったロングヘアにツバの大きな帽子を被り、黒のロングワンピースを着たすらりと背の高いスタイルのいい女性だ。まるで女優やモデルのような華やかなオーラを放っている。
女性「晴ちゃん帰るわよ~」
まりな(晴ちゃん⁉)
随分と親しい呼び名に驚くまりな。
女性「あら? 晴ちゃん、パパどこ行ったの?」
晴史「さぁ。さっきまでいたけど」
女性「あの人ったらまたフラフラとひとりでどこかに行って。ちょっとママ探してくるからね。晴ちゃんまでひとりでフラフラとどこかに行ったらダメよ」
晴史「はいはい」
女性の言葉を鬱陶しそうにあしらう晴史。女性がこの場を去っていく。その様子を見ていたまりなは晴史と一緒にいた女性が誰なのか気になって仕方がない。
まりな(今の誰!?)
晴史の視線がゆっくりとまりなに戻ってきた。
そして近付いてくると、女性が歩いていった方向を親指でクイッと指差した。
晴史「さっきの俺の母親」
まりな「え……」
一瞬、晴史の言っていることがわからずきょとんとした顔を見せるまりな。
まりな(母親……)
そしてようやく気が付いてハッとなる。
まりな「えええええっ⁉ 晴史くんのお母さん!」
思わず空港のロビー内に響き渡るほど大きな声で叫んでしまった。