あなたの傷痕にキスを〜有能なホテル支配人は彼女とベビーを囲い込む〜
「嘘っ、すごい人じゃない!」

 渡海グループは旧財閥系で、数々の商業施設やホテル、運輸業や商社を持つマンモスグループだ。倒産なんてありえない。毎年、『就職したいランキング』一位だ。

 もしかしてリストラされずに済むかもしれない。ひょっとしたら、キャリアアップあるいは昇給も望めるかも。

 はしゃいだ声の中、里穂はいたたまれなくなっていく。

「独身だってー!」

 誰かの情報で休憩室内はさらに沸いた。

「……なになに。『深沢氏は隠岐氏の懐刀とも無二の親友とも言われており』……『自他共に認めるCEOの女房役ではあるが』……『氏が結婚したことにより、今後は未来の側近を育てるべく彼自身が将来の伴侶を探すのだろう』だって! この際愛人枠でもいいわっ!」

 俄然、我こそはと恋人のいない同僚達が色めきたった。

「支配人の目に止まったら、玉の輿ってこと?」
「あんなお買い得、独身なわけないじゃない」

「……だよねえ……。そんないい家の出だと、結婚相手が決まってるわよね」

 どくん。
 里穂の心臓が反応する。

「おまけに『一晩限りでもいいわ!』っていうファンで行列が出来てるわ」

 耳に飛び込んでくる会話に心が切り裂かれそう。……里穂のことなど、通行人程度にも慎吾の記憶に残っていないのかもしれない。

 そんな人の子供を育てている自分。
 彼のせいではない。
 妊娠が発覚して、間に合う時期に中絶しなかったのは自分だ。

 ……堕ろそうなどとは一度も考えなかった。

 愛し合った人の子供は天涯孤独な里穂に授けられた、たった一人の家族なのだから。

 里穂は、そっと休憩室を出ようと立ち上がる。戸口で退室時間に〇八:一七と書き入れる。


「彼が私との未来を望んでいるなんて、あり得ない」

 聞かなければよかった。慎吾と自分の立場が違いすぎる。
 彼が、自分のような女を恋しく思うはずがなかったのだ。
 夢見る乙女だったことが自分が愚かしい。

 里穂は、ハッとなった。

「慎里のことを彼が知ったら……?」

『隠岐家の側近候補』として、慎吾に引き取られてしまうかもしれない。

「慎里は渡さない……!」
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