高天原異聞 ~女神の言伝~
第七章 幸わう神々

1 女神の心


 静まりかえった図書館の脇の芝生に、淡く光る紋様が顕れた。
 そうして、そこから浮かび上がるのは、只人ではなく神だった。
 荒ぶる神を筆頭に、葺根、宇受売、瓊瓊杵、咲耶比売、久久能智、石楠、闇山津見に抱かれた禍つ霊が宿っていた憑坐の姿が神気と神威を露わに現象する。
 暗闇の世界である幽世《かくしよ》から現世《うつしよ》へと帰還を果たした神々の容には皆安堵の色が伺える。
 出発は夜更けだったが、今は東の空がうっすらと明け始めている。
 幽世と現世の時の流れは微妙に異なるようだ。
 紋様を使って空間を跳び越えたことも作用しているのかもしれない。
 久久能智と石楠は、そのまま一礼して消えた。
 葺根と宇受売は建速を待つ。

「そなたらは、どうするつもりだ」

 建速の言霊は、慎也と美咲の中に在る瓊瓊杵と咲耶比売に向けられたものだった。

「こうして、出逢えたからには新たな憑坐の中に宿り、只人として今生を生きるつもりでございます」

 瓊瓊杵が静かに答える。

「日嗣の御子として、豊葦原を再び治める気はないのだな」

「ございません。すでに、豊葦原は神々の世界ではなく、青人草の世界。我らは、人とともに生きてゆきます」

 瓊瓊杵は、愛しさを隠さずに咲耶比売を見やる。
 見返す容《かんばせ》にも、愛おしさが溢れている。
 多分、咲耶比売は姉比売の憑坐に宿るのだろう。
 山津見の国津神は、今まで通り豊葦原に留まることになる。
 豊葦原に一番最後まで留まった神々だ。
 この後も変わるまい。
 建速は咲って頷いた。

「では、その身体には女神独りとなるのだな。そなたが出れば、女神の記憶と神威も戻るやも知れぬ」

 きっと、これから黄泉神だけでなく天津神も動き出すであろう。
 國産みの二柱の神の記憶と神威さえ戻れば、全て丸く収まる。
 その言霊に、咲耶比売の容が、不安げに揺らめいた。

「建速様」

「なんだ」

「母上様は、お戻りになられても、多分記憶と神威を取り戻してはおられませぬ」

「何故わかる?」

「私は、ずっと母上様の命《みこと》とともに在ったのです。母上様は、ただ黄泉国を厭うて逃げてこられたのではありません。ずっと何かを秘めて、それ故に現世に戻られることをお決めになったのです。母上様の記憶と神威が戻るのは、きっと最後の刻《とき》なのでしょう」

「最後の刻《とき》とは――?」

「それは、母上様にしかわからぬこと。ただ、その刻《とき》が来たら、我々は従う他はないのです」

「――」

 最後の刻《とき》。

 美咲に女神の記憶が戻れば、全てを覆す何かが起こるのか。
 神代が再び戻るのか。
 それとも、世界が終わるのか。

「最後の刻《とき》、か――」

 もう一度言霊を繰り返す。

 それでも、自分は彼女を護るだろう。
 それが、自分の天命であり、理《ことわり》なのだから。






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