高天原異聞 ~女神の言伝~

9 比売神

 図書館の裏にある木陰のベンチで、美咲は綾――木之花咲耶比売と一緒に座った。
 校舎の反対側なので、カーテンに遮られた館内は見えず、こちらの様子も見えることはない。
 熱い日差しを遮る木々の葉が、風に優しく揺れる。

「お身体は、大事ないのですか?」

「え?」

 唐突な問いに、美咲は戸惑う。

「私が母上様のお身体から出た後のことを伺いました。父上様がいてくださって、本当にようございました」

「――」

 羞恥で顔が赤くなる。
 誰も彼もがみんな自分達のことを知っていて、いたたまれない。
 大らかなのはいいのだが、そこら辺のことは話題にしないでもらいたいのが美咲の本音だ。
 だが、咲耶比売は赤くなった美咲の心情を察してか、優しく言を継ぐ。

「母上様。お気になさらずに。我々神々は、人の理とは違う理で生きているのです。交合いに関して恥ずかしがる必要はございません。我々神々は父上様と母上様の交合いを何より尊びます。祖神様の産みの神威により、私達は産まれ、生かされているのですから」

 そうして、咲耶比売は白く美しい腕を上げた。

「ご覧ください。この美しい豊葦原を」

 咲耶比売の指し示す方へ視線を向けると、その先には青い空と流れる雲、図書館を囲む木々と、塀の向こうに小高い山の連なりが見える。

「この美しい世界全てが、父上様と母上様の交合いから産み出されたのです。別天神《ことあまつかみ》も神代七代《かみよななよ》の他の神々も、父上様と母上様の偉大なる御業に敵うことはございません。その御業たる交合いを讃えこそすれ、蔑むものなど神々の中には在りますまい。貴女様は私達神々の母だけでなく、あらゆる命の母なのです」

「咲耶比売……」

 微笑む咲耶比売は、美咲の記憶の中の綾とは違っていた。
 それでも、美咲を温かく包んでくれる思いは同じだった。

「私に尋ねたいことがあると、伺いましたが」

「――」

「何なりとお尋ねください。私が答えられることであれば」

「伊邪那美は、記憶も神威もなくすことなく、豊葦原に還りたかったから、あなたとともに、黄泉国を出たんですよね」

「さようでございます」

「でも、現世に戻っても、伊邪那美の記憶も神威も戻りません。私は何も思い出せないままです。なぜ、記憶が戻らないのか、咲耶比売はご存じですか?」

「建速様にもお話ししましたが、、母上様の記憶が戻るのは、恐らく最後の刻《とき》でございましょう」

「最後の刻《とき》? それは何を指すのですか? 黄泉国との決着がつくと言うことですか? それとも、人の世が終わって、再び神々の世になると言うことですか? こんなことが、いつまで続くんですか?」

「母上様……」

「伊邪那美は、ただ、伊邪那岐に逢いたかっただけなんでしょう? それだけなんでしょう? だから、こうして出逢えた今、このままで、終わりにしちゃいけないんですか?」

 咲耶比売は何も答えなかった。
 美咲は、頷いてほしかった。
 そうだと言ってくれれば、こんな不安は感じないで済む。
 だが、自分達が出逢ったことで、日常とかけ離れた大きな流れができてしまった。
 今が一番幸せなのに、同じ強さで、怖くて堪らない。
 この幸せが長く続かないことが怖くて堪らないのだ。
 一緒にいたいだけなのに。
 いつも、願いが叶わない不安に襲われる。


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