高天原異聞 ~女神の言伝~
第八章 遠つ神々

1 おきつ


 護らなければ、ならないものがある。
 この手で。
 必ず。
 そうできるのは、他ならぬ己自身。

 美しいこの世界――豊葦原の中つ国を。
 そこで、自分を慕うあまたの神を。
 自分のかけがえのない半身を。

 憐れで、愛しいあの方を――





 夢の名残を残したまま、美咲は目覚めた。

「……」

 護らなければならないものがある。

 その想いは、美咲の中にある奥深くの何かと同じだった。
 それは伊邪那美の記憶か。
 だとしたら、これは、また伊邪那美の夢なのか。
 そうであって、そうでないような気もした。
 だが、伊邪那美でないなら、これは誰の想いだろう。
 美しい真紅のイメージが、不意に美咲の中に広がる。
 想いの中で、その感覚は温かく、穏やかで、どこまでも清らかだった。
 紅玉のように深みのある、いつまでも見つめていたい紅《あか》。
 この紅《あか》を、懐かしいもののように想う。
 かつてこの紅《あか》を、愛おしく想ったような気がする。
 切ないような感覚に、美咲は泣きたくなった。

 愛しいものを憐れだと、だからこそいっそう愛しく想うこの気持ちは、一体誰の――

「美咲さん、起きてる?」

 不意にかかる声に、美咲は虚ろな意識のまま応える。

「起きてない……」

 これも、夢か。
 慎也がいるはずがない。
 今は京都にいるはずなのだから。

「起きてないの? 答えてるのに」

 面白そうな響きを含んだ慎也の声が触れている身体からも伝わって、美咲は不思議に思う。

「――慎也、くん?」

「うん?」

 横たわっている自分を抱きしめているのは、勿論慎也だった。
 いつものように胸に抱かれている。

「京都に、いるんじゃないの?」

「京都だよ、ここ」

 即答に、美咲は昨日の記憶を呼び起こす。
 確か、電話が来たのだ。
 声を聴いて、逢いたくて堪らなくなって。
 建速が泣いている自分を抱きしめて。
 気づいたら慎也がいた。

「……え?」

 恐る恐る顔を上げると、やはり慎也が面白そうに自分を見つめている。

「おはよう。寝ぼけてる美咲さんも可愛いね」

「――!?」

 慌てて身体を起こして辺りを見回す。
 自分の部屋ではなく、見慣れないホテルの一室だ。
 美咲は、軽くパニックに陥った。

 本当に、京都なのだ。

 昨夜は、慎也に逢いたい気持ちだけで他に何も考えられなかったが、今日は勿論平日で、仕事もいつも通りあるのだ。
 カーテンから漏れる淡い光は早朝を示していた。
 朝になったら迎えに来る――そう言った建速の言葉を不意に思い出し、焦りとともに建速を呼ぼうとした。

「た、たけ――」

 だが、そんな美咲を、慎也が引き寄せて抱き込む。

「ダメ。まだ呼んじゃ。ぎりぎりまで一緒にいたい」

「慎也くん」

「もう少し、寝ぼけててくれればよかったのに」

 強く抱きしめられて、美咲はもがくのを諦める。

「慎也くん、今何時?」

「教えない」

「慎也くん!」

「今日の夜も来てくれたら教える」

 慎也の提案に、美咲は眉根を寄せた。

「今日の夜も?」

「そう。でなきゃ今日このまま美咲さんと一緒に帰る」

 さらりと言われた言葉の意味を理解して、美咲はぎょっとする。

「駄目よ、駄目! ちゃんと最後まで参加して」

「じゃ、来てくれるよね? 約束。じゃないと放さないから」

「わかったから! 今日もちゃんと来るわ。だから――」

 最後まで言わせず、慎也は素早く身体を放すと、美咲に覆い被さるように顔を近づけてキスをする。

「ありがと、美咲さん。すっごく嬉しい。まだ、六時になってないから、あと一時間はこうしてられるよ」

 そう言って、笑いながらまた顔を近づけてくる慎也を、

「ちょっと、何言ってるの!?」

 美咲は自由になった両腕で慌てて押し退け、もう一度身体を起こす。
 今度は、慎也は素直に放してくれた。

「だって美咲さん、キスしか許してくれないじゃん。許された権利は最大限使わないと」

 ベッドから身体を起こして壁に背を預ける慎也を、美咲は呆れて見つめる。
 当たり前だ。
 修学旅行中のホテルでそれ以上のことなど冗談ではない。
 美咲が困っているのに、慎也はしれっとしている。
 それどころか、そんな美咲の反応を楽しんでいる。

「人を困らせて、そんなに楽しいかな……」

「困ってる美咲さんも可愛いくて大好きだ」

「……」

 答えになっていない返答に、美咲は返す言葉もない。
 それでも、素直に心を表してくれる慎也を、自分も大好きだし逢いたかったのだから、本当に始末に負えない。
 甘えるように、もう一度美咲を引き寄せて抱きしめる慎也に、抵抗する気はもうなかった。

「ああ、ホントに美咲さんだ」

「うん……」

「寂しくて死にそうだった」

「うん……」

 それは自分の方だと、美咲は言いたかった。
 でも、慎也にはきっと言わなくても伝わるだろう。
 こうして、傍にいて、寄り添っていられれば幸せなのだということは。





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