高天原異聞 ~女神の言伝~

4 いく



 知っていました。
 貴方様の対の命は、私ではないと。

 大いなる意志によりて、天命を受け入れ、天降った方。
 国津神となろうとも、気高さを失わぬ、孤高の方。

 それでも、お慕いしておりました。
 ともに在れれば、それで良いのです。
 この豊葦原に、在られる限り、私は貴方の妻。
 何処にでも参りましょう。
 神去ったとて、黄泉返りし後までも貴方とともに。
 貴方に出逢うためならば、何度でも黄泉返りましょう。
 黄泉返った私を見つけてください。
 愛しい方。

 永遠に、ともに。

 私の願いは、それだけなのです。




「建速?」

 自分を呼ぶ声を聞いて、荒ぶる神は目を開けた。

「眠ってた?」

 心配そうに問うのは、護るべき母神伊邪那美の現身《うつしみ》――美咲だ。
 午後の図書館は、閲覧者もまばらで、のんびりとした時間が流れている。
 そのせいだろうか、文字を追うのを終え、目を閉じたところまでは覚えていたのだが。

「珍しく、眠っていた」

「珍しくって、普段は眠らないの?」

 驚いたような声音に、荒ぶる神は咲う。
 人と神は違うのだと、ましてや憑坐を持たず現身《うつしみ》のまま世界に現象している建速が眠ることは珍しいのだと言うことを、神々の記憶のない美咲にわかるはずもなかった。

「ああ。神代の時なら眠りもしたが、今の俺は他の神々や人間のように眠って疲れをとるわけではないからな。どうかしたか?」

「あのね。夢の話なんだけどね」

 建速が隣の椅子を引いてやると、大人しく美咲は座った。

「何か特別な夢を視たのか?」

「よくわからないの。伊邪那美の夢ではないと思うけど、咲耶比売でもない。彼女達の夢ならすぐにわかるもの」

 慎也と出逢ってから、美咲が夢を視るのは、いつも神々に関する夢だった。

「夜毎違うのか?」

「ええ。ただ、紅《あか》い色は、いつも感じるの」

「紅《あか》――? 血か?」

「そうじゃないの。宝石みたいな、濃い紅《あか》――そんなイメージがいつも感じられて」

「他には? 何を感じた?」

「怖いような、哀しいような、でも、それを待ってもいるような、何だか不思議な夢だった」

 自分の感じたことを上手く説明できていないような気がして美咲はもどかしかった。

「伊邪那美も死神だから、死に近くなる夢には特別な意味があるだろう。咲耶比売も、もういないはずの姉比売の夢を視たと、心配していた」

「咲耶比売も?」

 建速の言霊に、美咲の顔色が変わる。
 ずっと一緒だった自分達が、特別な夢を視た。
 また、何かが起ころうとしているのではないか。
 そんな不安に襲われる。

「不安がるな。不安は恐れとなって、闇を呼び込む。闇の神威が濃くなれば、死の力に呼び寄せられる。今の美咲は、俺達の神威で補っている状態だ。神威を失えば、黄泉国へ引き戻されるぞ」

「いやっ、それだけは!!」

 思わず、声が高くなってしまう。
 そんな自分に驚いて、周囲を見回すと、国津神達が今にも駆け寄りそうなほど心配げにこちらを見ていた。
 荒ぶる神が片手をあげてそれを制すると、美咲の頬を優しく包み込み、視線を合わせる。

「そうならないために、俺達がいる。恐れるな、美咲。護ってみせる。信じろ」

「――うん」

 何度も聞いた誓いの言葉。
 それでも、不安なのだ。
 慎也も傍にいない。
 逢って、抱きしめて欲しい。
 そうすれば、こんな不安は消える。
 早く夜になればいいのに。

「ごめんね、建速。護ってもらってるのに、我が儘で」

「構わん。足りんくらいだ。もっと我が儘を言えばいい」

「――だって、もう十分してもらってるわ。もう何も要らない」

「まあ、慎也と同じで、美咲にも慎也がいればいいんだろう。その割には、不安がる。慎也に神威を補ってもらえ」

「補うって、一緒にいればいいってこと?」

「交合えばいい」

 平然と言われた言葉に、美咲の頬が赤くなる。

「そ、そういうことは、口に出さないでもらえるとありがたいんだけど」

「何故だ? 言わねば伝わらんだろう。大体、毎夜一緒にいるくせに、交合いがないとはどういうことだ」

 自分達が交合ったかどうかも、建速達にはお見通しだったのだ。
 あからさまに問われて、恥ずかしいことこの上ない。

「だ、だって、修学旅行中なのよ」

「だからどうした」

 建速はあくまでも真剣だ。
 こういう話題を、建速とするのはいたたまれないのだと言うことを察して欲しいが、男で、しかも神である彼には通じないのだろう。

「――ホテルでなんて、嫌だもの……」

「場所が問題なのか。ならば、今夜は慎也を連れてこよう。それならいいか」

「……」

 恥ずかしくて、美咲は答える代わりに小さく頷くしかなかった。
 ようやく建速の手が頬から離れると、俯いてしまう。

「美咲。神々にとって、交合いは恥ずべきことではない。命を産み出す尊い行いだ。そして、今の美咲には神威を補うために必要な行為なのだ」

 その真摯な言霊に、美咲ははっと顔を上げる。

「記憶がないのだから仕方がないが、神威を補わねば、死が近づく。今夜は必ず交合え。死を寄せ付けないためにも」

「――わかった」

 今度は、きちんと答えた美咲に、建速が優しく咲う。

「今夜交合えば、死は遠ざかる。それでも、何か特別な夢を視たなら教えてくれ」

「そうする」

 そうして、美咲は仕事を再開するために立ち上がった。
 答えてから、ふと疑問に思う。
 振り返って、読み終わった本を戻そうと席を立った建速に声をかける。

「建速は、さっき眠っていて、何か夢を視たの?」

 不意に問われて、建速も視線を美咲に向ける。
 先程の夢を思い返してみた。
 あれは、神代の頃の遠い、懐かしい記憶だった。

「俺の場合、夢は記憶だ。神代を思い出しているんだ」

「それは、建速にとって幸せなこと?」

「何故、そんなことを問う?」

「さっき、目を閉じている建速は、何だか哀しそうに見えたから。だから、思わず声をかけちゃったの」

 美咲の言葉に、建速は虚を突かれたように一瞬表情を消した。
 だが、すぐに安心させるように微笑む。

「――記憶だからな。視ても戻れるわけでもない。だから、眠ることはもうやめたんだ」

「――」

 建速の言霊は、どこか、哀しげに聞こえた。
 美咲はもどかしいような思いに駆られ、また建速に抱きついた。

「どうした、美咲?」

「何でもない」

「俺は嬉しいが、また国津神達が騒ぎ出すぞ」

 昨日の騒ぎを思うと、遠慮したいところだが、美咲は何だか建速から離れがたかった。
 それは、昨日も感じたように、永い時を、ひたすら伊邪那美を捜すことだけに費やしたこの神が哀しくて、愛おしかったからだった。
 美咲は、国津神が騒ぎ出す前に、建速から離れた。
 見上げれば、建速は昨日と同じように嬉しそうな顔をしていた。

「建速、私を見つけてくれてありがとう」

 荒ぶる神は咲った。
 その笑みさえも、愛おしくて。
 何故か、美咲は泣きたくなった。






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