高天原異聞 ~女神の言伝~

8 おろち

 豊葦原の川上の水辺に、美しい八柱の比売神が顕れた。
 浅瀬で足を水に浸したり、深みで身を清めたりと賑やかに水と戯れる。
 姉妹神であろう比売神は、一の比売が十四、末の比売が七つであった。
 どの比売も愛らしく、仲睦まじかった。
 禊ぎを終え、各々が身体を休めていると、末の比売が対岸の茂みに視線を注ぐ。

――まあ、なんて美しい蛇。

 その言霊に、姉比売達が一様に驚く。
 対岸を見やると、確かに蛇がいた。
 染み一つない白銀の鱗は滑らかにさえ見える。
 蛇にしては大きな目は、木々のような茶色だった。
 普通の蛇とは異なる様相の蛇は、美しさよりも異様さが際立っているように姉比売達には見えた。

――何を言うの。蛇を美しいだなんて。

――末比売は変わっているわ。花や鳥に心を奪われるならわかるけれど、虫や蛇にさえ心を寄せるなど。

 口々に姉比売達から非難めいた言霊が漏れる。

――でも、お姉様方。本当に、美しい白い蛇です。

――幼子のくせに、蛇を恐れぬとは、本当に変わっているわ。

――幼子だからよ。年頃になれば、末比売も変わるでしょう。

――さあ。もう戻りましょう。

 慌ただしく去った比売神達の姿が森の木立に消えるまで、白い蛇は動かなかった。





 静けさの戻った川上の水辺に、程なくして戻ってきたのは末比売だった。
 四の比売が置き忘れた比礼を取りに戻ってきたのだ。
 四の比売が座っていた岩場の影に落ちていた比礼を、末比売は難なく見つける。
 そのまま姉比売達のもとへ戻ろうと身を起こしたその時、末比売は視線の先に白い蛇を見た。

――まあ。

 対岸にいたはずの、蛇だった。
 真正面から真向かう蛇は、先程よりもずっと大きく、美しく見えた。
 驚きで咄嗟に動けずにいた末比売をじっと見据えていた蛇の瞳が、茶色から真紅に変わった。
 同時に、蛇の身体から陽炎のように神気が立ち上る。
 それは、凄まじい神威を秘めた蛇神――遠呂知《おろち》だった。
 美しい瞳に見据えられ、末比売の意識が遠のく。
 抗うこともできず、魅入られたようにただ動けなかった。

――そなたの真名は、何と言う。

――……私の名は、奇稲田《くしいなだ》……

――奇稲田比売か――そなたこそ、我が伴侶に相応しい。

 まだ七つの幼子とは言え、末比売は他のどの比売よりも美しかった。
 その心根さえも。
 遠呂知《おろち》は、心に決めた。
 末比売を妻にすることを。
 だが、今のままでは駄目だった。
 末比売は幼すぎるし、己もまたこの姿では末比売と対になることはできない。
 刻《とき》と、贄が必要だった。
 身を伸ばし、末比売の額に、遠呂知《おろち》の舌が触れた。

――そなたに相応しき姿を得て、迎えに来よう。それまで健やかに待て。

――はい……遠呂知《おろち》様……

 こうして、誓約《うけい》はなされた。
 末比売は、何も覚えていなかった。
 比礼を取りに往って、すぐに姉比売達のもとへ戻った記憶しかなかった。
 その後すぐに、一の比売の婚礼が決まった。
 この地一帯の守り神である遠呂知《おろち》に嫁ぐことになったのを、両親ともに比売神達も喜んだ。
 だが、喜びは束の間だった。
 一の比売が一年も経たずに神去ったのだ。
 翌年、二の比売が再び遠呂知《おろち》に嫁いだ。
 そしてまた、一年も経たずに神去った。
 毎年毎年、遠呂知《おろち》は比売神を求め、比売神は嫁ぐ度に神去る。
 比売神達は恐怖の中で日々を過ごした。
 末比売は一層恐ろしかった。
 姉比売達が次々に死んでいく。
 四の比売と五の比売は、恐怖のあまり気がふれてしまった。
 そして、そのまま嫁いでいった。
 六の比売は、心を閉ざしたまま、今年嫁ぐ。

 もうすぐ自分の番だ。

 絶望が、この身を蝕んでいく。
 それなのに、どうして自分は姉比売達のように気もふれずにいるのだろう。
 いっそ狂ってしまえたら、楽になれるのに。
 逃れられない。

 死が、確実に、やってくる――







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