高天原異聞 ~女神の言伝~

4 束の間の愛



 月が出るのを待ちきれずに、月神は向かった。
 降り立った先には、すでに友である夜見の姿が在った。

「来たか、夜」

 差し伸べられた夜見の手を月神は取った。

「夜見。私を、待っていてくれたのか?」

「ああ。不思議なことに、別れてすぐに会いたくなってな。早くに此処に来てしまった」

 その言霊に、胸が温かくなる。
 自分が訪れるのを、このように嬉しげに迎えられることなど、初めてだった。

「友を待つというのも悪くないものだ。そなたの姿を視つけると待つ間の退屈な時を忘れてしまう」

 この琥珀の瞳を、いつまでも視ていたいと思う。
 低く、優しく響く声を、いつまでも聴いていたいと思う。
 友と在るというのは、このように満ち足りているのか。
 月神は幸せだった。
 幸せであるということがどういうことなのか、やっと気づいたから。

「私も、そなたに早く会いたかった。だから、月が出るのを待ち切れずに此処に来てしまったのだ」

 互いに咲い合い、また昨晩のように岩に腰かけ、湖面に移る月を視る。
 夜空に輝く月は、湖面に映っても美しかった。
 月が輝いているために目立たぬが、ひっそりと控える星々もまた美しかった。

「そういえば、そなたは私にこの水を飲んではならぬと言った。何故だ」

 傍らの夜見を視つめると、湖面の月のように美しい琥珀の瞳が得心したように咲う。

「ああ。この水は黄泉の源泉――始まりの水だ。この水を飲むと、記憶を無くすのだ」

「記憶を無くす?」

 夜見の言霊に、月神は驚く。
 静かな湖面にもう一度目をやる。

「人間であれば一口でも口にすれば全てを忘れてしまうであろう。神ならば、もっと必要だが――」

「――」

 忘れられるのか。
 忌まわしい記憶は全て。
 瞬き一つの間、そんなことを月神は思った。

「忘れたい記憶でもあるのか、夜?」

 問われて、我に返る。
 容を上げると、琥珀の瞳が此方を視ていた。
 労るようなその眼差しに、つい答えてしまう。

「――私だけが忘れてもどうにもならぬ。姉上にも飲んでもらわねば。だが、忘れてもらいたい記憶だけを無くすことは出来ぬのだろう?」

「そうだな。新しい記憶から忘れることになる。昔の出来事ならば、どこまで飲めばよいかは、私にもわからぬ。飲んだことがないからな」

「ならば、やはり、どうにもならぬ」

 諦めたように、月神は咲った。

 どうせ、自分は天照には逢えない。
 高天原を神逐(かむやら)いされたのだから。
 それを、なかったことになど出来ない以上、自分だけが忘れても意味がない。

「太陽の女神と諍いがあったのか?」

 あまりにも優しく問われたので、またも月神は答えてしまう。

「少しな。だが、心配は要らぬ。姉上と私は対の命だ。いずれ姉上も許してくださる」

 言霊は、ただの気休めのように響いた。
 それでも、言いながら、心を静めようと努める。
 そうでもしないと耐えられそうにない。
 不意に肩を抱かれて引き寄せられる。

「夜見――」

「辛いのなら、そのように耐えるな」

 夜見の肩に寄りかかって、月神は暫くそうしていた。
 温もりが伝わる距離で、こうしているのはなんと安心できるのだろう。
 ざわめいていた心が、落ち着いていく。
 だが、夜見とこうして傍に在る幸せとともに、天照と共に在ることが出来ない哀しみが沸き上がる。

「どうして、姉上は私を突き放すのだ。私とて、姉上の救けになれるのに。私は、そんなに頼りにならぬのか――」

「そうではない。そなたは――そのままで良い。恐らく、太陽の女神はそのようなことを考えて欲しくないのであろう」

「どういうことだ」

 月神が夜見を視上げる。
 夜見の琥珀の瞳は、どこまでも労るように優しく映った。

「煩い事は、そなたではなく自分が引き受けたかったのであろう。そなたには心安くあって欲しいのだ」

「……そうなのか……?」

「太陽の女神はきっとそのように思っているはずだ。私もそなたには心安くあってもらいたい」

 夜見の言霊は、心地よく響く。
 夜見は自分をわかってくれる。

「姉上は、私を愛しく想ってくださっているのだな」

「想わぬはずがない。友である私でさえ、そなたを愛しく思うのだ。対の命である太陽の女神は、それ以上であろう」

 愛しく思う。

 夜見のその言霊に、月神は胸が高鳴るのを感じた。
 友が自分を愛しく思ってくれる。
 それだけで、全ての憂いが消え去って往く。

「夜見、そなたは本当に得難き友だ。私は幸せだ」

 咲う月神に、夜見も咲みを返す。

「私もだ。得難き友を得て、幸いだ」

 寄り添いながら、二柱の神は動こうとしなかった。
 それ以上の言霊はいらなかった。




 それからは、毎夜、湖へと出かけた。
 戻った後は食事をして眠れば、またすぐに約束の時刻が来る。
 だから、夜の食国で独り過ごしても苦ではなくなった。
 独りで在れば在るほど、いつも夜見を思った。
 闇を具現したような漆黒の長い髪も、月のように澄んだ琥珀の瞳も、いつまでも視飽きぬ美しいもので、月神はすでに深く心囚われていた。

 夜見がいれば、それ以上何もいらないような気さえした。

 夜見もまた、同じように月神に心囚われていると気づいていた。
 自分を視る眼差しが、言霊がなくとも十分に愛しさを伝えていたから。
 夜見は優しかった。
 いつも月神の欲しい言霊を心を読むように伝えてくれた。
 互いの心を、これ程に理解し合えるのも初めてだった。

 自分も夜見のために、何かしてあげられたらいいのだが。

 月神はそう考えるようになった。
 幾度目かの逢瀬の時、月神は夜見に尋ねた。
 対の命は、在るのかと。

「私にも対の命は在る」

 そう聞いた時は、嬉しいのに、胸の痛みも感じた。

「それは?」

「死の女神となった伊邪那美だ」

 夜見の言霊に、月神は驚いた。

「母上様なのか――」

「ああ。だが、未だ現世への執着を捨てきれぬようで、独り閉じこもっている」

「母上様は、そなたに逢おうとせぬのか……?」

 信じられなかった。
 一目視れば、きっと夜見の美しさや優しさに気づくであろうに。
 会おうともせぬとは。

「――」

 言霊を探せずに、月神が夜見の手に己のそれを重ねる。
 それだけで、夜見が優しく咲う。

「我は待てる。今は、そなたという友が傍らに在ってくれる。寂しさなと何ほどのこともない」

 気にした風もない夜見の容に、月神も咲う。

「そうだな。私もそなたも待てばよいのだ」

 月神はどこか安堵した。

 今はまだ、こうして共に在れる。
 今はまだ、ずっと傍に在りたい。

 この温もりを手放したくない――互いがそう思っていた。





 穏やかで優しく、幸せな時が過ぎていく。
 互いしか存在しない時間の中で、二柱の神は寄り添い、咲い合い、ただ其処に在った。
 隣に在るだけで満ち足りた想いを、何と名付けたら良かったのだろう。
 あまりにも愛しすぎて、忘れていた。
 自分が月神であることを。
 高天原の、天津神であることを。



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