高天原異聞 ~女神の言伝~

9 終焉の音


 天津神は静まり返っていた。
 創世の女神が姿を消す前に残した言霊に心奪われていたからだ。

 最後の(とき)
 それは誰の、何の終わりなのか。

 だが、それを言霊にすることも出来ずにただ静かに太陽の女神の言霊を待っていた。

「月読、母上様は何処へ?」

 太陽の女神が静かに問うた。
 跪いたまま、月神はゆっくりと容を上げる。

「往かれた。全てを終わらせるために」

 視上げた先の太陽の女神は、そこに立ちつくしていた。

「姉上――」

 沸き立つような愛しさが、今はもう自分の内にはなかった。
 己の心の奥深くまで、視据えたからか。
 細波すら起きぬ湖面のように、心は静かだった。
 月神は静かに立ち上がり、太陽の女神に一礼すると踵を返した。

神逐(かむやら)いを解こうと思う」

 背中にかかる言霊に、月神は振り返る。

「姉上――?」

「そなた達を神逐《かむやら》いしたことを悔やんでいる。高天原へ――私の元へ戻ってくるがよい」

「――」

 その言霊を、どれ程待ち望んでいただろう。

 それなのに、微塵も嬉しくない。

 愛していた。
 この太陽の女神のように、気高く、強く、在りたかった。
 傍らに在れば、自分もそうで在れると信じた。
 今となっては、愚かな夢だったと、月神は気づいた。
 気高く、強い、この太陽の女神の本当の姿が、今なら視える。
 自分と同じに、弱く、脆い心を抱えて、それでも必死に、自分を奮い立たせていたのだ。
 高天原を統べる最高神として。

「一つだけお聞かせ下さい。姉上は、私を対の命だとは、思ってはおられなかった。そうですね」

 その問いに、太陽の女神は素直に答えた。

「そうだ。私とそなたは、太陽と月であっても、対の命ではない。私の対の命は、そなたでは有り得ぬ」

「その言霊を、もっと早くお聴きしとうございました。もっと早く聴いていたなら、このように永く、無駄な時を過ごさなかったものを」

「月読――」

「有り難うございます、姉上。お別れです」

「高天原に、戻っては来ぬのか――」

「戻りませぬ。今更、戻って何になるのですか。高天原など、今の私にはどうでもいいもの」

 月光が階を象る。

「姉上をお慕いしておりました。
 お傍に在りたかった。
 ですが、姉上には、初めから私など必要ではなかった。
 それに気づけなかった私は愚かです。
 それでも、もう、私は姉上から離れて生きていきます」

「月読――そなたも、やはり私から去るのだな」

「姉上に必要なのは、対の命です。私ではない。だから、私達は共に在れぬのです」

「そなたは視つけたのか」

「ええ。ですが、対の命であっても共に在れるとは限らないのでしょう。姉上のように」

 それでも、気づいてしまったから。
 心と、身体が、何処へ向かうのか。
 何を愛しいと想っているか。

「もう、会うことはないでしょう。それでも、姉上がお幸せでありますよう祈っております」

 階を登り、月神は静かに消えていった。
 太陽の女神は静かにそれを視送った。
 断ち切れぬ執着が、一つ終わったのだ。
 月神は見事にそれを断ち切った。
 自分はどうであろう――断ち切るべき執着とは、荒ぶる神とのことなのか。

「――!!」

 物思いに囚われ、気づけば伊邪那岐の現身が消えていた。

「建速よ。父上様のお身体を何処へ⁉」

「在るべき場処へ」

「在るべき場処? それは高天原だ。父上様のお身体を返すのだ。さもなくばそなたも神去ることになる!!」

 太陽の女神が再び黄金の錫杖を構える。

「お前が俺に勝てるのか」

「わからぬ。だが、このままおめおめと引き下がれぬ」

 太陽の女神の神気が揺らぎ、神威が満ちる。

 荒ぶる神の神気が揺らぎ、神威が満ちる。

 同時に、二柱の神の対峙する空間のみが圧倒的な場を創り上げる。
 暗闇の領界に、二柱の神の神気と神威が現象し、天津神々が平伏す。
 貴神の圧倒的な存在と、驚くべき調和に全ての神々が悟ったからだ。

 対だと。
 この二柱の貴神が、対の命なのだ――

「天照様、建速様と争ってはなりませぬ!!」

 宇受売の言霊も届かない。
 対峙する空間は、他の何をも受け付けない。
 二柱の神には、互い以外に何も視えない。
 太陽の女神の黄金の錫杖が荒ぶる神目掛けて幾度も振り下ろされる。
 だが、荒ぶる神はいとも容易くそれを受け止め、神殺しの剣で弾き返す。

「天照様!!」

 天津神々の叫びが口々に洩れる。
 生まれながらの戦神の前に、太陽の女神といえども敵う筈もない。
 黄金の杓杖を強く握りしめ、天照はその美しい唇を切れるほどに噛みしめた。

「私を殺すがいい」

「まさか。俺は伊邪那岐と違う。対の命を己の手で殺すなど愚かなことはできん」

 神剣を下ろし、荒ぶる神は言霊を継ぐ。

「父上様を侮辱するな!!」

「伊邪那岐は、本当はこんなこと望んではいない。自分達を縛る大きな力に逆らうことも出来ずに、いつも伊邪那美の手を放すんだ。逆らえる力を持ちながら、それを恐れている。そしていつも、全てをなし終えてから嘆く。
 その吐息から、俺が生まれた。だからこそ俺は伊邪那岐ができない全てのことをしてやる。それがあいつの真の望みだからだ。
 天照、諦めろ、伊邪那岐は高天原には返らん。伊邪那美の在る処にしか、伊邪那岐の在る処はないのだ」

 言霊を発しかけて、太陽の女神は束の間黙り込む。

「――そうだ。私には、父上様の望みを叶えることは出来ぬ。神代からこれまで、そう在りたいと願いながら私に出来ることは何もなかった。そなたが一番、父上様によく似ておる。そなたは父上様の心から産まれた。そなたが父上様の望みをわかるのは理かも知れぬ」

 黄金の錫杖が、力なく下ろされた。

「そしてお前は伊邪那美によく似ている。伊邪那美と伊邪那岐の最後の目合(まぐわ)いから産まれたからだ。俺達が惹かれ合うのも、理だ」

「――」

「今は待たねばならん。伊邪那美が告げた最後の(とき)を」

 荒ぶる神は、静かに告げた。





 目を開けたとき、傍には誰もいなかった。
 そこには、美咲と美しく揺らめく炎のみ。
 美咲はかすかな炎の揺らめきに視線を向ける。
 だが、その眼差しは、いつもの美咲とは違っていた。
 もっと深く、もっと厳かなものをたたえていた。
 不意に、かすかな残り火が一際大きくはぜて輝いた。
 炎が美咲の周囲を彩る。

「知っているわ。この暖かさ。この愛しさ」

 声音も、違って響いた。
 それは美咲のものではない。
 失われた女神――伊邪那美のものだった。

「火之迦具土。お前なの?」

 その言霊に、炎はいっそう揺らめきを増す。
 陽炎のように揺らめく神の姿。
 神気が輝く。
 神威が満ちる。
 美しく揺らめく炎の中に顕われたのは、なよやかで艶めかしい神だった。

「迦具土――」

 手を伸ばした伊邪那美に、炎の揺らめきが僅かに退く。

――母上様。私を厭わしくお思いではないのですか?

「どうして? どうして私がお前をそのように思うの? 過ぎし世で、私の死と引き換えに産まれたこと? 私が、それを恨んでいるとでも?
 お前は私の子。愛しい愛しい私の子よ。その気持ちに譎りはないわ」

――至らぬ私には、過ぎた言霊です。私が産まれたが故に、父上様にも、母上様にも、許されぬ苦しみと哀しみを与えてしまいましたのに

「そのように言われて、殺されたの? 産まれたばかりの愛しいお前を、あの方が天之尾羽張でこんな姿に変えてしまったの?」

――母上様。それは違います。私が自ら望み、父上様が、その願いを叶えてくださったのです


 血と死と絶望に満たされた産屋で。
 父神は母神の亡骸を胸に抱き、火神を視上げていた。

――父上様。私をお斬り下さい。

――何を言うのだ。愛しい妻が命と引き換えてまで産んだ愛し子を斬るなど出来ぬ。

――いいえ。斬るのです。さすれば私は現身(うつしみ)を捨て、父上様の代わりに母上様を追って往けるのです。

――我の代わりに、伊邪那美を護ってくれるか。

――お護り致します。父上様がお迎えに来るまで、必ず。

 父神の手に顕れた、一振りの美しい剣。

――名を、頂けますか。確かに、私は在ったのだという証として。

――愛し子よ。そなたの名は、火之迦具土(ほのかぐつち)。命を流れる血の如く、赤く輝く美しい神である。

 名を与えられた美しい神が微咲(ほほえ)む。

――美しい名です。至らぬ私には過ぎた名でございます。

――許せ……

 ふらりと、父神が立ち上がる。
 美しい神剣が、一閃したのが現身(うつしみ)で視た最後の記憶だった。


――私はどんな姿でもいい、この世界に産み出してくれた母上様とともに在りたかった。けれど、現象した身では、黄泉国へ逝かれた母上様のもとへは往けぬ故、父上様にお願いしたのです。神剣で斬られれば、現身(うつしみ)は滅びようと御霊(みたま)は残ると知っていたのです

 そうして、火之迦具土は現身を捨てた。
 神を斬った神剣は、その凄まじい死の神威により、神をも滅ぼす新たなる命と神威を得た。
 そうして斬られた女神と対になった。
 生と死の交合いにより、分かちがたく求め合わずにはいられぬ対の神霊となった。
 だからこそ、剣がともに黄泉国に降るまで、火之迦具土はただ傍らで伊邪那美を視護ることしかできなかった。
 神話も使えず、何度語りかけても届かず、比売神とともに黄泉国を去る伊邪那美を追っても往けなかった。

「迦具土。こんな姿になってまで、私と在りたいと思ってくれたの? 今も、その気持ちに変わりはないの?」

――はい

「私が、再び神代を終わらせたとしても――?」

――それが、母上様が黄泉返った本当の理由なのですか

「そうよ。全てを終わらせるために、戻ってきたの。もう、人の世に神々は必要ない。必要であった時代は、とっくに終わっていたの。
 ここはすでに、私の産み出した大八洲ではない。永い年月が、全てを変えてしまった。
 変わらぬ私達こそがすでに異形なの。
 神代と辛うじて繋がる黄泉も豊葦原も高天原も。
 私達は所詮人の世では生きて往けぬ定めなのだから」

 涙が零れた。
 どれほど、この世界を愛していたか、今、痛いほど胸にこみ上げる。

 愛しい半身と過ごした日々。
 愛しい子供達。
 愛しいものとともに生きる、若々しく、命の鼓動に満ち溢れた世界。

 終わってしまった、様々な日々を心から惜しむ。
 終わらせると決めてからも、ずっと迷っていた。
 もしかしたら、共存の道が、何処かに在るのではないか。
 忘れ去られた自分達が、もう一度生きるための路が、何処かに在るのではないかと。
 だが、自分達は弱き神々のように人にはなれない。
 神として、再び現世に現象することも出来ない。
 すでに、路は閉ざされたのだ。
 だから、これは終わる前の、一瞬の、最期の瞬きでしかない。
 国津神は女神へと還り、今度こそ目覚めない。
 天津神は高天原へと還り、人の世には介入出来ない。
 黄泉神は暗闇の領域へと隔てられ、光在る処には存在出来ない。
 言霊が大気を震わせることもない。
 神気はその名残を留めるだけで、神威は去る。

 それが、定められた理なのだ。

 自分の役割は、黄泉の國産みをすることでも、再び神代を取り戻すことでもない。
 神々の終焉を――かつて与えた生ではなく、全てを奪う死を齎すことなのだ。
 だからこそ、一番最初に、死が与えられねばならなかった。

 与えたものだけが、奪うことが出来るのだから。

「何故、私達はこのような終わりを迎えねばならなかったのか……」

 何も知らなかったあの頃に――神代の美しい時へと戻れたらと、幾度となくそう思う。
 けれど、時はすでに過ぎ、決して戻らない。
 古の約定に従いて、終焉の音を奏でねばならない。

「許しておくれ、迦具土。お前に最後の責めを負わせたことを」

 だが、美しき火神はよりいっそう輝きを増し、微咲(ほほえ)む。

――私の火は、母上様を暖めてさしあげられましたか

「迦具土。お前を抱きしめてあげられたらいいのに」

 伊邪那美は火之迦具土に向かって手を伸ばした。
 けれど、その手が火の神をとらえることは無かった。
 どれほど手を伸ばしても触れられないことを、女神は嘆いた。

――母上様。悲しまないで。私はいつでもどこにでもいます。たとえ触れることができなくとも、私のぬくもりは常に貴女とともに在るのです。暗闇の中に灯るあかりとなり、寒さを和らげる暖となり、身を護る業火となり――
 母上様。私を忘れないで、炎の揺らめきの中に私を思い出して

 流された血のように紅い火柱が立ち上がった。
 女神の周囲を彩り、女神の命へと還る。
 美しい炎だった。
 純粋で汚れない、この世で最も儚く美しい存在。
 最後の国津神が、女神の命へと還る。
 女神は目を閉じた。
 零れた涙を拭いもせず、ただ、それを受け入れた。

「迦具土、迦具土――忘れないわ。決して忘れない。私を護ってくれてありがとう」






 最後の国津神が、女神の命の内に還った。

 神気が揺らぎ、神威が満ちる。

 記憶の全てが返り、今美咲は美咲でありながら、完全な伊邪那美命でも在った。
 身に纏う神気は暗闇の中で淡く煌めく。
 すでにそれは、死の女神ではなかった。
 神代のままの創世の女神だった。

「――」

 進み出ようと一歩踏み出した時、

「何処へ参る? 伊邪那美よ」

 静かに問われ、声音のした方へゆっくりと容を向けた。

「……」

 其処には漆黒の髪と琥珀の瞳を持つ美しい異形の神の姿が在った。

「黄泉大神――」

 現身から沸き上がる恐怖を憶えている。
 だが、逃げてはならないのだ。
 同じ過ちを、繰り返してはならない。

「――」
 
 美咲は目の前の異形の神を視据えた。
 闇をその身に纏い、絶望を携え、視る者を震え上がらせるほどの美貌をもってしても、ともに寄り添って生きていけない神だった。

「伊邪那美。どうあっても、伊邪那岐を選ぶか」

 静かに、けれども深く響く声。
 かすかな記憶が甦る。
 昔は、この声を深い壁の向こうから聴いたのだ。
 絶望に囚われ、最後まで自分はこの神と真向かおうとはしなかった。
 愛するのはいつでも、伊邪那岐だけだったから。

 例え、裏切られたとしても。
 何度、裏切られたとしても。

「ええ。私は、貴方と一緒には往かない――」

 それが、二柱の神が初めて真向い、交わした言霊であった。





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