高天原異聞 ~女神の言伝~

10 女神の言伝

 静かな狭間の領界で、闇の主は湖面を視ていた。
 全てが終わったのに、此処だけは永遠に変わらない。
 否――全てはもとに戻っただけだ。
 ここで、独りきりで月を愛でる――それこそが、本来であっただけなのだ。
 此処にある月は、誰のものでもない自分だけの月だ。
 誰も奪えぬ、自分だけの。
 それでいいのだ。

「――」

 何故か、闇の主は咲いたくなった。
 月を視上げ、ふいに気づく。

 月の光が、此方に伸びてきていることに。
 光は静かに階を創り出し、美しい神が姿を顕した。

「夜――?」

 月の階から、ふわりと月神が闇の主の目の前に降り立つ。
 (みづら)を結わぬ長く艶やかな黒髪が胸元に零れ、白い夜着とは対照的で美しかった。

「何をしに来た?」

「そなたに、逢いに来た」

 静かに告げる月神に、闇の主は咄嗟に言霊を探せない。
 その逡巡を気にした風もなく月神は傍らに座る。
 暫し、二柱の神々は言霊も交わさずに湖面を視ていた。

「――何という永き時を無駄にしたことか」

 やがて、闇の主が語る。
 傍らの月神が、小さく咲った気配がした。

「無駄にはならぬ。永き時を経ねば、わからぬ事もある。これからは、ともに在れるのだから」

 月神が、そっと闇の主の肩に寄り添った。
 下ろしたままの長い髪が闇の主の衣に優しくかかった。

「私とともに、在ってくれるか――」

 闇の主が手を伸ばし、柔らかな月神の手に指を絡める。

「もうともにしか在れぬ。そなたこそが、私の対の命だと気づいてしまったのだから」

 月神の言霊に、闇の主は絡めた指を引き寄せ、月神を腕の中に抱く。
 仰向いた美しい容が間近に在る。
 月神はその身を預けたまま抗わない。

「夜――」

「夜見――」

 互いが与えた名で、互いを呼ぶ。
 静かに唇が重なる。
 絡み合った舌の甘さに、何度も求め合う。
 横たえられた月神は、美しい涙を流す。

「何故泣く?」

「嬉しいからだ。そなたの対で」

「嬉しいのなら咲え。もう泣かずともよい」

 帯を解かれ、美しい裸身が露わになる。
 柔らかな胸に吸い付くと、月神の身体が歓喜に仰け反る。

「ああ、夜見。優しくしてくれ。子がいるのだ」

「子が――?」

 闇の主が容を上げると、恥じらうように月神が目を伏せる。

「誰の、とは聞かぬのか?」

「私以外の誰がいる。女体のそなたを抱いたのは、私だけであろうに」

 横たえた月神を起こして膝の上に乗せる。
 そうして、月神の肌を優しくまさぐる。
 何処に触れても柔らかく、従順で、喜びを隠さない。

「私の子を産んでくれ、夜」

「ああ。私が、そなたの子を産む」

 視つめ合い、咲う二柱の神々は幸せだった。
 もう気持ちを隠すことも、殺すこともない。
 抱きしめることを躊躇わずとも良い。

 永遠の夜の中、二柱の神々は愛しさを隠さずに交合った。






「――」

 日差しの明るさに最初に目を覚ましたのは、慎也の方だった。
 目を開けると、まだ眠っている美咲の顔が間近にある。
 違和感が残るのは、それが、美咲のアパートのベッドの中ではないということに気がついたからだ。
 肘をついて身体を起こすと、そこは、図書館だった。
 閲覧者用の、背もたれなしの大きなソファに、二人は横たわっていた。

「朝が、来てる――」

 それがまるで奇妙なことのように、慎也は呟いた。

「……ん……、何……?」

 慎也に続いて、美咲も目を覚ました。
 だが、驚きは慎也よりも大きかった。

「……ここ、図書館よね。何で――」

 がばっと起き上がって、周りを見回す美咲に、慎也はじっと視線を向けたまま動かない。

「美咲さん、俺を……憶えてる……?」

 事態がよく飲み込めていない美咲に、慎也が問う。

「覚えてるわよ、失礼ね。それより、どうして、ここにいるの? 何でこんなところで眠ってたの? 休館日だから仕事片付けにきたはずなのに」

 カーテンの向こうは、すでに陽が高い。
 どうも記憶が曖昧だった。
 いつからここにいたのか、なぜここにいたのか、思い出そうとしてもその部分だけが霞みがかったようにはっきりしない。
 それは美咲も慎也も同じようだ。

「憶えてないの?」

「憶えてないって、何を?」

「俺のこと」

 美咲は、訝しげに慎也を見返す。

「時枝慎也くん、高3で図書委員、それ以外に何か忘れてる?」

「――えっと、俺達恋人同士だってこと」

 聞いた瞬間、美咲は赤くなった。
 憶えているらしい。

「あんなに強引に迫られて、憶えてないわけないじゃない!!」

「じゃ、図書委員、の次に恋人って言ってくれてもいいじゃない」

「――言えるわけないでしょ!? いきなり人を記憶喪失みたいに、真面目な顔で覚えてるかなんて聞く人に」

「じゃ、」

 慎也は身を乗り出して、さらに美咲に問う。

「今日って何日?」

 慎也の問いに、美咲はすぐに答えた。

「でしょ?」

「なんでわかるの?」

「だって、カレンダーにかいてあるわよ。カウンターにだって返却予定日の札あるし」

 美咲が指さす方へ慎也は視線を向ける。
 確かにカレンダーが貼ってあって、休館日の赤丸がここからでもはっきり見えている。返却予定日は、その二週間後を示していた。
 だが、美咲に視線を戻した慎也は、どこか納得していないような表情をしていた。

「何かあったの?」

 美咲の問いにも、どこか上の空で答えた。

「すごく逢いたかったんだ……美咲さんに。百年ぐらい逢ってなかったような気がする」

「大げさね。四月に逢って以来、顔見なかったのって、あなたが修学旅行に行った一週間だけじゃない」

「……それだけ?」

「そうよ。それ以外毎日図書館に来てるじゃない。山中先生にはとっくにばれちゃってるし。卒業するまで内緒にするって言ったのに。内緒にしてくれてる山中先生には感謝しないと」

 首を傾げ、慎也はじっと美咲を見つめる。

「何か、大事なことを忘れてるような気がする」

「何よ、いきなり」

「何だか――永い夢を視ていたような気がする。美咲さんとずっと離れ離れになってたような」

「離れろって言っても、離れないじゃない。少し離れてくれた方がいいわよ」

 呆れたように笑う美咲に顔を寄せて、慎也はキスをした。
 赤みの引きかけていた美咲の顔が、再び真っ赤になる。

「何するのよ、いきなり!!」

「何って、キス」

 きょとんとして慎也が聞く。

「職場なのよ、ここ」

「でも、誰もいないし」

「そういう問題じゃない!! 職場では嫌だって、何回も言ってるのに」

「じゃあ、早く美咲さんのアパート行こう」

「どうして人の話を聞かないかな……」

「美咲さんが大好きだから」

 答えになっていない答えに、美咲は苦笑するしかない。

「――それで全部済まそうってところは、いつになっても変わらないのね」

「変わらないよ。美咲さんを好きな気持ちは、きっとずっと変わらない」

臆面もなくそう言う慎也に、

「知ってるわ。そう言われて許しちゃうところは、私もきっと変わらないわね」

 美咲は諦めたようにそっと目を閉じる。
 二人の影が重なって、永い永いキスが始まる。
 そこには、二人を隔てるものも遮るものも、もう何もなかった。





 月曜日の午前中は、一般の来館者が少なく、美咲の仕事は専ら返却本の片付けだ。
 分類別に積み重なった本をいつものように両手に抱えて書架へと戻していく。
 急ぎの仕事もないので、美咲はのんびりと作業を楽しんでいた。
 何度目かのカウンターと書架の往復を繰り返していた時、不意に、一般の来館者用の玄関から入ってきた男に気がついた。
 仕立てのいいスーツを着た見慣れない初老の男だ。
 男は、まずカウンターに視線を向け、誰もいないことを確認してから、館内を見回した。
 そして、本を抱えた美咲の姿を見つけると、真っすぐにこちらに向かってくる。
 美咲は、持っていた本を一旦近くのテーブルに置いて、目の前の初老の男にいつものように声をかける。

「おはようございます。貸し出しカードの新規登録ですか? でしたら、カウンターまでどうぞ」

 美咲がカウンターを手で示すと、男は訝しげに美咲を見ていた。

「母上様……?」

 小さな呟きが聞き取れずに、

「はい?」

 美咲が聞き返す。
 それは、この高校の理事長である八塚宗孝だった。
 神気と神威を喪った八塚は、一気に老け込んでいた。
 それこそ、本来の時を取り戻したかのように。

「憶えては、おられぬのですか……」

 失望したような声音が、小さく漏れた。

「あの、――?」

「いえ、私の思い過ごしだったようです。では」

 失望を隠せず、肩を落としたまま、八塚は美咲に背を向けた。

「八塚様」

 名を呼ばれて、八塚がはっと振り返る。

「もしや――」

 美咲へと身を乗り出した八塚のその額に、美咲の指先が触れた。

「――」

 身体が動かなかった。
 声さえ出ない。
 触れている美咲の指先から、何かが抜き取られていくのを、八塚は感じた。
 それは、神々に関する彼の記憶だった。
 美咲は、微笑んでいた。
 女神のように。

「忘れて下さい。全て」

 嫌だと、答えようとした。
 もう誰も憶えていないのだ。
 神々が去り、自分達の役目が全て終わっても、自分だけは、憶えていたかった。
 許されるならば、天之葺根命のように、ずっと、傍にいたかったのだ。
 そう、誓ったのに。
 神々が去った今、その思い出すら残していってはくれないのか。

「それが、荒ぶる神の最後の願いです。『全て忘れて、幸せに』と」

 だが、出かかった言葉は、慈愛に満ちたその言霊に封じられた。

 これは、人の言葉ではない。

 心に染み入るように届く、この言霊は――神の言伝だった。

「――」

 荒ぶる神の、面影が甦る。

 美しい、神がいたのだ。

 自分の人生の全てに、あの方が在った。
 自分が死ぬまで、ともに在れれば、それが自分の幸福だった。

 忘れたくない。
 何一つ。

 それなのに。
 それが、最後の願いなのか。

「はい……」

 八塚は目を閉じた。
 こぼれ落ちた涙が床に落ちるまでに、彼は全てを忘れ去った。





 何事もなかったかのように図書館を出て行った八塚の後ろ姿を見送ると、美咲もまた、何事もなかったかのように積み重なった本を書架に戻していく。
 静まりかえった図書館には、珍しく閲覧者は誰もいない。
 空調の静かな音と、密やかな美咲の足音だけ。
 図書館の中央の柱も、今はもう淡い光を放つことはない。
 吹く風に、揺れる木々に、愛おしい衝動を感じることもない。
 窓際の席に腰掛けて本を読む荒ぶる神も、美咲の仕事を悉く奪ってしまう国津神々ももういない。
 全ての人が、忘れてしまったからだ。

 この世界に、神々が降り立ったことを。
 愛おしく、切ないほど、この世界を愛していたことを。

 いずれ自分の神威も消える。
 八塚への荒ぶる神の言伝を伝え、もはやすべきことは何もなかった。

 女神の言伝は全て届けられたのだから。

 そして、新たな日々が過ぎていく。
 そこに、神は必要ない。
 だから、この神威も、必要ない。

 それこそが、現世の理となったのだ。





「――」

 校内へと続く扉が開く音に、美咲は視線を上げた。
 そこから入ってきたのは、慎也だった。
 慎也は館内を見回してからカウンターにいる美咲に目をやると、笑って手を上げた。
 今は人がいないからいいようなものの、閲覧者がいたらこんな他愛ない挨拶もできない。
 それでも、真っ直ぐに自分に向かって来る慎也を、愛おしいと想う。
 慎也の進学や、卒業後の環境の変化で、これからきっと、自分達は離れている時間が長くなったり、すれ違ったりすることもあるだろう。
 だが、この気持ちは、きっと、ずっと変わらないと思う。

 何より慎也が、ずっと変わらず美咲を大切に想ってくれると信じられるから。

 そんな慎也に向かって、美咲は笑って手を振った。










 それでも。

 私だけは、あなたを忘れない。

 全てが消えても、あなたを憶えている。

 それが、証。

 私があなたを、あなたが私を、愛していることの、何よりの証になる。


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