愛を待つ桜
聡のほうは、そんな妹の言葉で我に返ったようだ。


「兄の一条聡です」


掠れるような甘いバリトンだ。
それは一瞬で夏海の脳裏にクローゼットの情事を彷彿とさせ、彼女の全身が震えた。

その後、何を話し、何処を通って家まで帰ったのか……ほとんど覚えてはいなかった。



数日後――。

夏海が帰宅するとコーポの前に人影が見えた。


「夏海、さん?」


階段脇の暗がりに聡は立っていた。


「ど、どうして、ここが?」

「調べたんだ。父や匡に聞くわけにはいかないし……少し時間が掛かった」


彼は最初に逢ったときと同じ、優しく穏やかな微笑を浮かべて言った。
あの日と同じように、夏海は彼の声を聞くだけで胸が締め付けられる。


「もう……逢えないかと……思って、ました」


聡の顔を見た途端、切なさと愛しさに涙が込み上げる。


「このままにはしないって言ったろう? 人を愛するのに、多くの時間は必要ないと君に教わった……広い場所もね」


夏海を見つめる聡の瞳には、間違いようのない愛が溢れていて……。


満開の桜のように、目の前にしただけで嬉しくなるような恋に出逢えた瞬間だった。

それからひと月余り、ふたりは恋のもたらす幸福に満たされ、引き合わされた運命に感謝し、人生の喜びを味わう。


匡との縁談はすぐに断わった。
しかし実光はなかなか了承してくれず、再考を促してくる。

夏海は聡との関係に夢中で大して気にもしていなかったが、聡はそうでもないらしく、とうとう自分から社長に話すと言ってくれた。


「もし、そのせいで会社に居辛くなったら、うちの事務所に来ればいい。どのみち、近い将来そうなるんだ。私は君と離れる気はないよ。夏海、愛してる」


それは……夏海が聡から聞いた、最後の「愛してる」の言葉だった。




―第1章に続く―


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