気持ちは、伝わらない(仮)
親友はホスト
21日の日曜日の午後、約束通り一成 夕貴(かずなり ゆうき)は大豪邸の正門の前にオープンカーを静かに停車させた。ここは東京都でも有数の住宅街である。その中でも桁違いに格式高く、由緒ある貴族の末裔、樋口邸の門は背丈の二倍ほどもあり、セキュリティ、デザイン性、高級感に抜かりはない。

 ピンポーン。

『はい』

 インターフォンを押すと神経質そうな男の声が聞こえる。執事だ。

「一成です。阿佐子さんをお迎えに上がりました」



「何、これ?」

 阿佐子はまだ免許をとったばかりの俺のフェラーリに乗り込むなり、後部座席に置いてある白いビニール袋に気が付いて尋ねた。

「今日は俺んちでアップルパイパーティだよん」

 口笛を吹くほどの上機嫌で答える。

「夕ちゃんの手作りなの?」

「何で俺の手作りなわけ?」

 俺はサングラスのままにっこり笑って作れと命令する。

「そういえば親戚の子、マンションで預かってるって言ってたじゃない。今日もいるの?」

「いるよ。あ、そうそう。阿佐子と同じ学校だよ。ちょっとやんちゃだけどな。頭はいいし。でも上行くかどうかは微妙だなぁ」

 18歳の俺は自分でタバコに火をつけた。阿佐子は一成のタバコに火をつけたことはない。もしつけるようなことがあるとすれば、それは命令以上の何か強い力が働いた時だろうと常々思っている。

「昨日、ちょっと飲みに行ったんだけどハメ外しちゃって。気付いたらホテルだったわ」

 丁度信号待ちなので顔を見て話せる。同い年の阿佐子は余裕そうに、まるで、昨日が雨だったとでもいうように、淡々と話した。

「はぁ!? ……………………何だそれ?」

 俺はようやく、落ちそうになる灰に気付いて灰皿ではたいた。

「でも何もしてないわ。ただ疲れて寝ただけ」

「疲れて……って」

 さっきまでの機嫌はどこへやら、自分でも全く分からない。俺は言葉通りタバコをぷかぷか吸い始めた。

「他にどんな理由が必要なの?」

「ってゆーか、あるだろ普通」

「私はないわ。だってお互いがそれでよければいいのよ。一緒にベッドに入ることくらい、なんてことない」

「…………」

 前方を睨んで黙ってしまった俺に阿佐子の視線が刺さってきたが、反応はしないでおく。

「…………でもちょっと、空しいだろ?」

 数分経過して出たのは、その一言だけ。

「そう言われればそうかしら。でも、疲れているからそこで寝るだけなのよ。疲れているのにまたそこで疲れないといけないわけ?」

 阿佐子はサングラスをかけながら睨んだ。

「いや……まあ……。相手が医者じゃなくて何よりだ」

 俺は阿佐子の主治医である榊が嫌いで仕方ない。それはもう、一生言い続けても言い切れないくらいの様々な理由がある。中身も外見もそうだが、まず、いつも人を見下すような目つきが既に受け付けられない。

「アイツの場合は気が付いたらみんな妊娠させられてるよ」

 30分ほど世間話をして、一成邸に着く。ホストクラブでナンバーワンを張るほどの自宅も当然高級マンションだ。

「いつ来てもキッチンが広くていいわ! 」

 俺は自分が何をしたわけでもないのに阿佐子の反応が嬉しくて仕方なかった。

 気分は新婚夫婦。高校生の居候、修也 涼(しゅうや りょう)は部活の遠征で深夜遅くに帰って来たからまだこの時間は部屋で寝ているだろう。

 俺は先にワインを抜いて、1人ダイニングチェアで飲みながら真剣に粉を計量し始める阿佐子を熱心に観察する。

 うちの父親が阿佐子の父親の部下という繋がりで、知り合って既に18年。

 記憶はないが、おそらく一目惚れだったと思う。他にどう形容してよいか分からない、とにかく、魅力的で美しくて可愛くて……以来その引力に逆らえないようになってしまっている。

 といってもその間、阿佐子だけをつらつらと想いつめていたわけではない。いろんな女と付き合った。大学の教員に始まり、人妻、キャバ嬢、スッチー、ナース、官僚。だが、どれも長続きしない。

 理由は言うまでもない。

 それらの女が樋口阿佐子ではないからだ。

 それならどうして我が欲を果たさないのか。

 言っておくが、失われると予測されるものと、得られると期待されるもののバランスの関係だとか、とにかく、怖いからではない。

 仲良くなるきっかけをいつも作ってくれては破壊していく樋口の兄、慶一郎(けいいちろう)が一成本人にこう言ったからである。

「ダメだ。阿佐子は駄目だ。阿佐子はお前をそういう風に見ないよ」

 いくつの時だったか忘れるほど幼い頃、そう線引きをされた。

まだ未成年だった兄は、どんな大人よりも優雅にタバコを吸う。その姿に見とれながらも俺はいつもガキ扱いされることに怒っていたことは覚えている。

「アイツは産まれた時から結婚相手が決まっているようなもの」

「だから?」

 兄は俺を睨んで問いに答えた。

「いいか? 結婚というものは相手を一生想い、必ず幸せになければならないんだよ」

 10以上離れた兄から出たセリフはものすごく説得力がある。俺は負けじと睨んで答えた。

「分かってる」

 数秒、睨み合った。

 灰が落ちるより早く、兄が一歩引く。

「じゃあ、いいんじゃないか? お前がアイツを幸せにすればいいんだ」

 兄が何を言いたいのか分かっている。兄が言いたいのは、許嫁のことではない。

 樋口阿佐子を独占したいと思うのなら、半端な気持ちではしないこと、お前にはその覚悟と正念があるのかということ。

 俺はいつ来てもらっても大丈夫な自身がある。自身だけではなく、富も名誉も十分だ。だが、一つ。

 阿佐子を待たなければならない。

 つまり、彼女がその気になってくれるのを待つ。それが今俺にできることなのだと信じている。

 作業はようやく生地をこねる段階である。樋口は一度も一成を見ようともしない。

「そういえばね」

 目線は生地。だが、離しかけている相手は当然俺だ。

「何?」

「ずっと言おうと思っていたことがあるの」

「何?」

「あのね……」

 いいところなのに、彼女は粉を少量手に取り、生地に混ぜている。どうやら片手間で話すような、どうでも良い話らしい。甘い期待はいけない。

「もうね、3年くらい言おうと思っていたの」

「そんなに!? えっ、何?」

 頭は高速で回転した。良い酒のおかげで動きがスムーズである。

「夕ちゃん、私といる時、必ず香水つけないわよね」

「…………」

 フライング。

 だが、これには慣れている。

「今頃気付いたわけ?」

 間の後、笑えた。

「だから3年前」

 彼女もこちらを見て笑った。

「最初会った時から、何の匂いもしない人だなと思ったんだ」

「私が?」

「うん」

「基本的に香水は苦手だから」

「うん、女って大体するじゃん? 匂いが。だけど人工的な匂いがしなかった」

「動物的な匂いがしたわけ?」

 彼女は笑いながら生地を棒で伸ばす作業にかかった。

「……まあ、……そうかな」

「哺乳類だからね」

 それから俺は阿佐子がしゃがみ込んでオーブンを開けるまで一言も話さなかった。ずっと1人妄想をしていたのである。もしも、樋口が一成になったらどうなるだろう?

「よし、後35分でできるわよ」

「じゃあその間あっちで飲もう」

 俺はリビングにワインとグラスを運んだ。

 リビングのローテーブルには高級ブランのカタログが2冊あった。どちらも一流ブランドの最新商品を詳細と写真とともに掲載してある。だが、阿佐子はこれといって興味がない。偶然見つけた物がブランドだったということはあるが、わざわざ雑誌を呼んでまでこだわる方ではないことは知っている。だが今だけは、一頁ずつぼんやり見ていた。

 なぜなら、俺の視線を感じているからだ。

 グラスに口をつけながらじっとこちらを見つめている様を手に取るように分かっているはず。だからこそ、視線が絡むのを避けているのだ。

「あのな……」

 話し方が変わったせいか、阿佐子は一度、深く目を閉じる。

「俺、お前のこと、好きなんだけどな……」

 独り言として処理できるよう、対策はとっている。

「知ってる」

「え?」

 それでも阿佐子はカタログから視線を上げなかった。

「二度目よ。それ」

「そっか……」

 忘れていたわけではない。一度目は3人でいる時だった。あの時はもう1人のせいで完全に遊びにとられたが。

「私も夕ちゃん、好きよ」

「ふぅーん」

 友達として、と付け加えたいのを我慢したのを俺は見破っていた。

「もしさ、仲良い男友達ができたとして。こうやって家まで来てアップルバイ作ったりするの? 阿佐子は」

「しないわ。それにここまで来たのはあなたが運転をしたからよ」

 阿佐子はまだまだ視線を上げない。

「何で?」

「仲良い、も、男友達、も関係なくね……。私は夕ちゃんと私の関係だからしたいことをしているの」

「……ちょっと、顔上げろよ。最初から読んでないくせに」

 阿佐子は少し困り顔でも笑いながら、「24頁に載ってる時計が欲しいわ」。

「俺がお前を愛ししていると言ったら?」

 阿佐子は一瞬目を瞬いたが、すぐにポーカーフェイスを意識している。

「言ったから何なの? 言わなければ何なの?」

「話を逸らすなよ」

 俺は逃げ腰の阿佐子をやんわりたしなめる。

「私はまだそんなに大人じゃないの。愛なんて分からない」

 阿佐子はこれ以上ない極上の微笑みを見せる。

 俺はその顔を数秒見つめた。詳しくは次に脳が働くまで、見つめた。これは彼女の得意技だ。これを見た者は次の会話まで数秒その笑みに溺れるしかない。

「時計ってどれ?」

 俺はどうにかその間を短くしようと焦って本に手を伸ばした。が、

 カチャ……

「あっ!」

 俺の焦りに気付いた阿佐子は、反射的に手を動かし、グラスを倒してしまう。そして中の赤い液体は俺の白いシャツの上へ。

「あぁ……」

 腹と下腹部の辺りを赤く染められた俺は、無意識に溜息を一つ。

「ごめんなさい! タオル、取ってくるわ」

「あのー……キッチンの棚の所。とってきて」

 阿佐子は目的の物をすぐに見つけると俺に手渡した。どうも他人が拭きづらい場所である。

「びしょびしょ」

 俺はそう言いながら白いシャツを脱いだ。

 中はタンクトップ

 何ということのない服装。数人でプールに遊びに行ったことだってある。しかしそれももう3年前のこと。

「何?」

「え! いえ、別に……」

「何?」

「……これ、洗わないと駄目ね……」

 俺は相槌を打つと、バスルームで軽く腹を拭いた後新しい服に着替えた。今しがたの阿佐子の顔……明らかに驚いていた。

 見たか! という思いである。

 昔、貧弱だったわけではないが、ホストを志したと同時に毎日3キロランニングをするという課題を自分に出した。今も休日以外は休むことなく続けられている。
 
24頁の時計か……、俺は鏡を見ながら記憶すると、軽い電子音が鳴り止んだばかりのキッチンへ足を向けた。

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