夏の陽射しが水面を撫でる。無色のはずの水が、空の青を映してきらめいていた。

「俺が、あの人のタイム超えたら……」

 彼は続きを言葉にしないまま、スタート台に右足をかける。
 続きは聞かなくてもわかっていた。彼女はストップウォッチを握る手に力を込める。


 ――忘れられない人がいるの。


 彼女の記憶を塗り替えるために、彼の記録を塗り替えようとするなんて、実際バカげた話だろう。
 スタート台の上で前屈姿勢をとる彼の背中に、まるで羽根を切り落とした痕跡のように浮かぶ肩甲骨。滑らかな背骨が中央を走り、彼の鍛え上げられた筋肉がしなる。

「用意」

 夏空の下、真っ白なTシャツの背に汗のしみをつくり、彼女が声をあげた。それに合わせて、彼はぐっと体を縮める。

「スタート!」

 水飛沫が上がり、彼の体が水に吸い込まれる。指先から腕、頭、そして胸――流れるようなフォームで彼は水に溶けた。数メートルの潜水ののち、彼の肘が鋭角に水をかく。
 水を弾く引き締まった肌、彼の体はぐんぐんとプールの向こう側に進んでいく。そして豪快なターンを決めると、今度はスタート台に直進してくる。力強く水をかく腕は、彼女を引き寄せようとしているかのようだった。

「……バカ」

 ストップウォッチを手に、彼女は小さく呟く。それは誰に向けた言葉だったのか。彼女自身にもわからない。本当はとっくに終わっていた恋にしがみついているフリをして、目の前の好きな男から逃げようとした自分か。それともすべてを見越した上で、こんな茶番を演じる彼か。

 彼がゴールする直前で、彼女はストップウォッチを投げ捨てた。Tシャツにショートパンツ姿のまま、プールに飛び込む。濡れた衣服が肌にはりつくけれど、そんなこともうどうでもよかった。

「バカっ!」

 突進するように泳いできた彼が、迷うことなく彼女の体を抱きしめる。その背に翼なんて必要なかった。左右対称の美しい羽根の切り痕。彼女は水中でも熱い背に腕をまわす。

「タイムなんかで、私の心をはからないでよ……」
「だったら、俺のものになれ」


 照りつける午後の光。重なる唇が、もどかしいほどに互いを求める。

「……わかってるクセに」

 吐息混じりの声を聞いて、彼は低い笑い声をもらした。

「わかっていても、試したくなることがあるだろ?」


 ふたつの体が、互いの心を交換するようにキスを繰り返す。影はひとつになって、さざなみを押し寄せる水面に揺らいでいた。

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密フェチ 

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