暁を追いかける月

4 罪悪感


 女の行くところなら、キリはどこにでもついていくようになった。
 料理をしていれば皿を運び、洗濯をするときは篭を受け持った。
 雛が親鳥につきまとうように、女の傍についてゆく。
 女もまた、つきまとわれても文句を言うことなくキリの好きにさせていた。

 キリは人懐こい子どもだった。

 最初の態度は褒められたものではなかったが、キリなりの虚勢だったのか、心を許した者にはどこまでも素直で愛らしい。
 女が家族のことを聞くと、
「いないぜ、そんなの」
 いとも簡単に答えた。
 流行病で両親ともキリが八つの時になくなったらしい。
 父親は村の馬の世話係だったので、亡くなってからは、村人に養ってもらいながらキリが馬の世話を引き継いだという。
 そのせいか、キリは馬の扱いがおそろしいほど上手だった。
 どんな大きな馬も難なく乗りこなす。
 気性の荒い馬でも、キリの前では不思議と大人しくなるのだ。
 馬の目利きにも秀で、買い付けにはよくついていったと話した。
「リュシアは? 家族は?」
「いないわ。一人よ」
「ホント? じゃあ、俺と同じだ」
 あっけらかんと笑うキリに、女は黙って頭を撫でる。
 十三になったばかりだというが、キリは背も普通よりはやや小さく、身体も細い。
 それでも、たくさん食べるせいか体力はあるらしく、一日女と働いていても元気いっぱいだった。
 悪戯が好きで、女の目を盗んで階段の手すりを滑り降りたり、洗った泡だらけの敷布を身体に巻いて、そのまま洗濯だと川を転げ回ってびしょぬれになったりした。
 怒られどころも弁えているらしく、引き際も見事なので、女は怒るより感心してしまう。

 リュマは――そうではなかった。

 悪戯なんて、したことがなかった。
 いつも優しくて、読書が好きで、夢中になると一日読みふけっていた。
 夜に本を読み聞かせてもらうのも好きで、いろんなことに興味を持って質問してくるので、時には答えに窮して後で調べて教えると約束したことも少なくなかった。
 勿論、近所の男の子達と遊ぶこともあったが、どちらかといえばつきあって合わせているようなところがあった。
 父親が生きていた頃は身体もあまり丈夫とは言えず、よく熱を出していた。
 そうなると食も細くなり、ますます治りも遅くなって、父親と二人で必死で看病したものだった。
 キリと一緒に過ごすと、リュマとの思い出も甦る。
 最初は、それが嫌だった。
 けれども、リュマとは全く違うキリは、いつしか辛いだけではない優しい記憶も呼び覚ます。
 弟にできなかったことをキリにしていると、死にたいと思うことをつかの間忘れることができた。



「なんだ、これ。めちゃめちゃ美味い」

 食後に出されたほのかに甘い香りがするそのお茶を、キリはひどく気に入ったらしかった。
 香ばしく、すっきりしたその茶は男達にも好評だ。
 次々とおかわりが注がれる。
「野草の根を刻んで乾燥させるの。それを煎ったらあとは普通のお茶と同じよ。身体にいいの」
「リュシアが作ったのか? もしかして、この間たくさん摘んだやつか?」
「そうよ」
「へえ、そこらに咲いてる草が、こんな美味い茶になるのか」
 興奮気味に、キリは男に話しかける。
「なあ、統領、リュシアは何でもできるんだな。お茶まで作っちまうなんてすげえよ」
「そうだな」
 男も静かに相槌をうつ。

「そんなすげえリュシアは、何だって、いつまでも嫁に行かないんだ」

「――」
「――」
「――」
 一瞬、その場がしんと静まりかえった。
「――お、おい、キリ、姐さんに何てことを」
 ハラスが止めに入る。
 しかし、キリは気にした風もない。
「だって、女は普通十六、七で嫁に行くんだろ? リュシアは二十歳だ。嫁に行ってもおかしくない」
 確かに、キリの言っていることはおかしくない。
 しかし、その話題は、ある意味女の事情を知っている男衆には触れてはならぬものなのだ。
 そこら辺の詳しい事情をまだ知らないキリのあけすけな問いに、男衆達は茶を飲む振りをして、ちらりと男を盗み見た。
 いつもの喜怒哀楽がわかりづらい表情が、いつにも増して読めない。
 キリが来てから女も口数が多くなり、キリを通じて男と女の会話も増えたが、この話題にだけは男がのってくることはないだろうと男衆達は確信していた。
 そんな心情を、全く察していないのか、キリはさらにとんでもないことを言い出した。

「わかった、リュシアは俺が嫁にもらってやる!」

 その言葉に、男衆達は一斉に茶を吹き出した。
「キ、キリ――」
「何馬鹿なこと言ってんだ!?」
「おめえ、まだ十三だろうが」
「そんなこと口にするのは百年はえぇ!!」
 慌てふためく男衆にもキリは動じない。
「何言ってんだよ、こんな器量も良くて、気だても良くて、料理が美味くて、掃除洗濯もばっちりな女、他にどこ捜したっていねえよ。こんな女逃したら、男じゃねえ」
「う……」
「た、確かに……」
「それはそうなんだが――」
 キリはわずかに驚いた顔をしている女にさっと向き直る。
「リュシア、俺、七つの差なんて全っ然気にならないし、真面目に働くし、浮気なんて勿論しないし、子どもも可愛がる。だから、あと三年して、俺が十六になったら安心して嫁に来い!!」
 満面の笑みで自分を見つめるキリに、女はなんと答えたものかしばし逡巡し、
「そ、そうね――考えて、おくわ……」
 と、辛うじて当たり障りなく答えた。
「――考えるな」
 苦虫を噛みつぶしたような低い声が、短く言い捨てる。
 男衆達が一斉に自分達の統領に視線を向ける。
 男が女の腕を掴んで立ち上がる。
「飲み終わったらもう寝ろ。明日も早い」
 不機嫌にも聞こえる声音で言うと、男は女を連れて部屋に戻っていった。
 男衆達は唖然として、その後ろ姿を見送った。

「これで進展しなかったら、統領は男じゃねえな」

 ぽつりと呟くキリの声。
 男衆達は凄いものを見るように今度はキリを見つめた。
「今の、わざとかよ」
「キリ、おめえ、やるじゃねえか――」
「ホントに十三なのか? サバよんでんじゃねえだろうな」
 呆れたようにキリが男衆達を見る。
「あほか。どいつもこいつもだらしねえなあ。何だってもっとはっぱかけねえんだよ。あの統領だぜ? 放っておいたら進むどころか引きさがっちまうだろうが」
 茶をぐいいっと飲み干すと、空になった杯を突き出す。
 そそくさとジルが茶を注いでやる。
 男衆の憧憬の眼差しを受けつつ、キリは二杯目の茶を飲み干す。

 ある意味、キリが一番男らしかった。



 部屋の扉が閉まるなり、
「キリの言うことを真に受けるな」
 男の不機嫌な声音が響いた。
「真に受けてないわ。あの子はいつものように冗談を言っただけ。あたしなんかに本気で言うはずない」
「リュシア」
「あの子は知らないから。あたしが何をしたか。知っていたら嫁に来いだなんて言わない」
「リュシア」
「こんな、死に神みたいな女を――」
「リュシア、よせ」
 男が女を抱きしめる。
 あまりにも優しく抱きしめられて、女は泣きたくなる。
「優しくしないで。そんな資格ないのに――」
 男が優しくすればするほど、愚かだった自分を許せなくなる。
 弟を失った悲しみで、何も見えていなかった。
 だから、愚かな言葉を口にした。

 国を滅ぼして欲しいなんて、どうして口に出してしまったんだろう。
 どうして、この男に、そんなことをさせてしまったんだろう。

 自分の手を汚さずに、全部他人にさせた。
 あの皇宮の広場に転がっていたたくさんの首のない死体と、おびただしい血の色を、忘れることなどできない。
「あたしのせいで、たくさんの血が流れた。弟だけじゃない、たくさんの人が死んで、国が滅んだ」
「お前のせいじゃない。国が滅んで、たくさんの血が流れたのは、お前だけのせいじゃない」
「あたしも、死んでしまいたい――」
 こんなにも卑怯な自分が、生きていていいはずがない。
こんなに穏やかで幸せとも言える日々が、続いていいはずがない。
「お願いよ、あたしを死なせて。許してちょうだい。こんな風に、生きていたくない……」
「駄目だ」
 それ以上の言葉を封じるように、男は女の唇を塞いだ。
「――」
 後頭部に手がかかり、顔を背けることもできない。
 苦しさにわずかに開いた唇から、舌が入り込み、絡み合う。
 貪るようなくちづけに、女は呼吸すらままならない。
 足の力が抜けると同時に、寝具の上に押し倒される。
 角度を変えて何度も繰り返されるくちづけは、乱れる吐息と舌の絡み合う淫らな水音で鼓膜を満たし、抵抗する気力を奪う。
 上衣はいつの間にか左右にはだけられ、白く柔らかな胸の谷間が露わにされている。
 男の手が乳房を優しく覆いながら、胸元に舌を這わせる。
 甘い痺れが背筋を駆け上がる。
 それでも、辛うじて、拒絶の言葉を口にした。

「やめ、て……いや……」

 掠れて乱れた声を、男は聞き逃さなかった。
「――」
 女が拒んだ以上、続けることはできなかった。
 例えどれほど続けたいと思っていても。
 大きく息をつく。
 身体を起こして女の乱れた胸元を直すと、男は無言で女から離れた。
 掛け布をかけて、自分の寝具に横になって背を向けた。
「――」
 女も、男に背を向け、乱れた呼吸を整える。
 触れられた唇は甘く痺れ、触れられた肌は熱を持って疼いていた。
 本当は、拒みたくなかった。
 だが、男に身を任せてはいけないのだ。
 抱かれてしまえば、男からは離れられない。
 男も、自分に縛り付けられてしまう。
 これは、愛ではないのだ。
 憐れみだ。
 弟を死なせたという見当はずれの罪悪感で、男を縛り付けるわけにはいかなかった。
 そうしていい、男ではない。
 キリが言っていたように、男はたくさんの人間に必要とされているのだ。
 いつか自分の本来いるべき場所へ戻っていく男だ。
 そこに、女の居場所はない。
 それが、現実だ。
「――」
 堪えていた涙がこぼれた。
 ぎゅっと目を閉じて女はまた祈る。

 明日、目を覚まさなければいいのにと。


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