第1章 シリカさんと少女。 


 ロンドン橋 落ちる 落ちる 落ちる

 ロンドン橋 落ちる マイ フェア レデイ



 いつも、同じ童謡が頭に響いている。

 落ちるなんて、縁起が悪い。わたしは、受かったのよ。

 実習も終えて、今日から新しい生活がはじまる。

 ナースとして。新しい病院で。

 だから、足取りも軽く、その病院に向かった。



 ロンドン橋 落ちる 落ちる 落ちる

 ロンドン橋 落ちる マイ フェア レデイ


 

 病院の寮からは、五分ほどの距離。

 春の夜。

 甘い香りがする、鉄製の門を開くと、そこは教会のような外観の、

 聖クロス病院。

 エントランスホールは、蠟燭の炎の灯りだけ。

 先輩ナースに聞いたところによると、

 ここの中庭が、素晴らしいらしい。

 どう素晴らしいのか知りたがるわたしを、

 先輩は笑ってはぐらかすだけだった。
 
 好奇心を抑えきれなかったわたしは、

 こんな夜中だというのに、見に来てしまったという訳だった。

 明日になれば、見れるのに、

 気持ちを抑えられなかったのは、

 あの歌が、今日はまた普段にまして騒がしかったからだ。


 ロンドン橋 落ちる 落ちる 落ちる

 ロンドン橋 落ちる マイ フェア レデイ


 職員用の門扉を開けると、

 そこに広がっていたのは、見事なローズガーデンだった。

 それも、白一色の。

 バラの濃厚な香りが、夜の闇を練りあげるようだ。

 テムズ川からの風が、白い花弁を巻きあげる。

 庭の中心に白い柱のガゼボがあって、誰かがいる気配。

 そっと近づくと、白い少年がいた。

 月明かり所為かも知れないが、

 異様に肌白く、

 見間違いでもない。
 
 彼は白髪で、風が吹けば手折れてしまいそうな程、華奢だ。

 白いシルクのパジャマ姿が、とても似合っていて、かわいい。

 そして何よりも、きれいだった。

 美しかった。

 ここの患者様だろうか。

 川風は少し冷たく、風邪を引いたらいけない。

 彼に近づいたわたしは、その視線の先にあるものに気付いた。

 少年よりももっと幼い少女が、

 バラをむしり取っては、地面に投げている。

 こちらも患者様かも知れない。パジャマ姿だ。

 バラの花びらを集めて、何かを作っているようだった。

 少女の指は、血に染まっていた。

 容赦のない勢いで、花をちぎっては投げる。

 少年はその様子を黙ってみていた。

 わたしも、息を殺して、少女を見守る。

 完成したのは、純白の褥だった。

「できた。…どうです、兄様。私、頑張りました」

 少女は、褒めてもらいたいのか、

 シリカさんという少年の足元に膝をついて、真摯なまなざしを捧げる。

「よくできました。これは柔らかそうだ」

 そして、「何よりも美しい」と付け加えた。

 それから、少女の手をとり、自分も立ち上がると、

 そっと、少女を抱き寄せる。

 少女の陶然とした表情が妙に艶めかしく、

 わたしは息を飲んだ。

「本当にいいの? 後悔はしないかい」

「私は兄様のもの。それにもう時間もないの」

 風の中で、少女が小さく「抱いてください」と呟くのが聞こえた。

 シリカという少年は、大切なものを扱うように、

 動かないでいる少女の髪を撫ぜた。

 髪を撫ぜ、頬に指を滑らせ、唇に触れる。

 しかし、中々ふたりはひとつにはならなかった。

 シリカさんの指の動きは明らかに愛撫そのものだったが、

 すぐには、少女が心から欲するものは与えない。

 わたしは動くに動けなくなっていた。

 覗きの趣味などないが、眼の前の風景があまりに美しく、

 眼がそらせない。

 シリカさんが、突然、少女を抱き上げた。

 ふたりは声を合わせて笑う。

 シリカさんはグルグル回った。

 そして、力尽きて、花弁の中に倒れこんだ。

 ついにふたりが見つめ合い、

 少女が了承したように、眼を閉じた。

 シリカさんが、ゆっくりと唇を近づける。

 わたしは、陶然としつつ、動けないまま。

 まさに、ふたりの唇が重なろうとした、その時。

 わたしの後ろの茂みから、

 黒いナース服を着た女性がワラワラと現れた。

「お姫様、みーっけ」

「アビーさん。すぐにお部屋に戻って下さい」

 二人のナースが少女、アビーさんを取り押さえ、

もうひとりは、そっとシリカさんを立ち上がらせた。

「いやだ! 離して! 私はお兄様と…」

「貴女に与えられしものは、この方ではありませんよ」

「落ち着いて、貴女が求めるものを、思い出して」

「違う! 私が求めるものは…」

 シリカさんはアビーさんと違って落ちついていた。

 どちらかと云えば、少女を憐れむような視線を動かさないでいる。

 呆然としているわたしの肩を叩いた者がいた。

 一度面接で言葉を交わしたことのある、ヘリオトロープ牧師だ。

「アビーさんを早く部屋へお連れして」と、牧師様が云う。

 その後ろには、顔を強張らした男女、きっとアビーさんのご両親だ。

シリカさんを噛みつくような眼で睨んでいる。

「…シリカお兄様」

 少女は、やがて全てに絶望したかのような顔をして、連れ去らわれた。

 庭に残ったのは、シリカさんとわたし、ヘリオトロープ牧師と、

先輩ナースがひとり。あたりはシン…と静まり返る。すると、突然、

シリカさんが笑い出した。笑うシリカさんを、ふたりは無言で眺めている。

 本当に、完璧なまでに美しい白い髪のシリカさん。

 年は、まだ10代後半にも見える幼い容貌。

 何故、この人は、こんなに真っ白になってしまったんだろう。

 わたしの疑問に答えるように、彼が笑いをこらえながら云った。

「私は、白血病なんです。見事に白くなりました。怖いですか?」
 
 わたしは導かれるように答えていた。

「いえ、とてもきれいだと思います」

 すると、ヘリオトロープ牧師と、ナースが笑った。

「天使のようでしょう?」

「神のご加護があらんことを」

 ふたりは、同時に胸元で十字を切った。

 白血病だといいながらも、彼の口調には力強さがあった。

「貴女は、ロンドン橋からきた、新しい看護師さんでしょう?」

「わ、わたしは」

 ロンドン橋と聞いたわたしの心臓が、戦慄いた。

「わたしは、ロンドン郊外から来ました。サンドラと申します」

 それが、わたしとシリカさんの奇妙な出会いとなった。

 不思議とわたしは、この後のことをよく覚えていない。

 シリカさんは直ちに個室に戻され、ヘリオトロープ牧師が、

「紅茶を入れましょう」と誘ってくれたような。

 わたしは、しばらく続いていた寝不足がたたったのか、その場で倒れてしまっ

たようなのだ。

 シリカさんの声は、少しハスキーで、魅力的だった。わたしは、昔から心地良

い声に弱く、身体に力がはいらなくなってしまう変な体質だった。

 本当に、彼の声は、不可思議にわたしの深部にまで波動を広げてくる。

 気を失ったのは、その声の所為かもしれなかった。

 その声が、いつまでも、離れてくれなかった。

 その声が、ずっと遠くで歌っていた。


 
 あの娘を鍵で 閉じ込めろ 閉じ込めろ

 あの娘を 閉じ込めろ  マイ・フェア・レイディー