「おはよう、サンドラ。もうお茶の時間ですよ」

 先輩ナースの、アイリーンの声で目覚めた朝。

 今日も、曇っている。

 寮の食堂で、みんなは静かに朝のお茶を飲んでいた。

 アイリーンが親切に淹れてくれたのは、アールグレーのミルクティーで、

 お腹がすいていたわたしは、スコーンを忙しく食べはじめた。

「昨日は眠れなかったの? 病院で言い訳は通らないわよ」

「探し物をしていて、遅くなっただけよ。

 大丈夫、昨日みたいに倒れたりしないから」

 それから、私たちは外套を羽織って、病院へ向かった。

 道すがら、メインストリートのお店に目移りする。

 かわいいものが並ぶ雑貨屋。色鮮やかな花屋。いい香りが漂ってくるパン屋。

 今朝のおいしい紅茶はあの店のものだろうか。

「わたしの家は郊外で、本当に小さい田舎町なの。

 こんなに沢山のかわいいお店は珍しく見えるわ」

「この界隈は、ヘリオトロープ牧師の知縁の土地で、お店を営んでいるのも、

 先生の親族がほとんどよ」

「先生、いい家柄の出なのね」

「最近、白髪が目立ってきて、ちょっと私たちはきついのだけどね」

 アイリーンは不思議なことを云った。

 ヘリオトロープ牧師は多才な方だ。牧師であり院長である。

 病院の中の礼拝堂は、患者様とその家族、

 そして、病院スタッフのために礼拝が行なわれる。

 しかし、牧師先生のかっこうは少し滑稽に見えた。

 牧師コートの上から白衣を羽織っている。

 ナース服も、黒だったことは、意外であった。



 昨夜の今日だというのに、シリカさんは元気がなかった。

 個室のベッドの上で、手を組んで眠っていた。

 朝の明かりのなかで、彼はますます白く見え、

 光の中に溶けてしまいそうだった。

 個室は私物が少なく、真っ白なバラが盛大に活けてあり、

 甘い香りを放っていた。天然のアロマに気持ちが癒される。

 わたしがバラを眺めていると、

「そのバラは、アビーが取ってきてくれたんですよ」

 と、シリカさんが掠れた声で云った。

「ごめんなさい。起こしてしまって。あの、わたしは、」

「今日からここの担当になったって聞きました。楽しみにしていたんです」

 嬉しくなることを
 自然に云うあたり、子供らしくないひとだ。

 自分のことを、僕ではなく私、なんて。どこかの子爵様だろうか。

 わたしがバイタルを測っている間、彼は気怠そうにバラを見つめていた。

 まるで、そこにアビーさんがいるように。

 アビーさんの容態が良くないことを、わたしは伝えられなかった。

 彼女は呼吸困難で、今、起座呼吸の状態で、

 厳しい水分制限を余儀なくされている。

「アビーは終末期に入った」

 突然、シリカさんが云った。

「私は、ひとは、思念でどんな病気でも治せることを、証明したかった。

 私にとって、生きることは使命だった」

「何故、過去形で話をするの。アビーさんは、頑張っているのよ」

「知っているくせに」

 シリカさんは力なく笑った。泪がひとつ伝って落ちた。

「どんな場所にいても、私は、彼女を愛し続ける」

 その声はまた、わたしの深部に響いてきた。

 気持ちのどこかで、わたしはアビーさんを羨んでいた。

 これから死んでしまうであろう、ひとなのに。

「キャンディー色の名刺を探して下さい」

 シリカさんは消え入りそうな声で云った。

「キャンディー色って…何のキャンディー?」

「キャンディーはキャンディーです。お願い、探して」

 そして、そのまま何も云わなくなった。

 バイタルは安定している。このまま眠ったほうがいい。

 誰もが心配していた。

 アビーさんになにかあったら、シリカさんは…シリカさんは…。


 わたしはその後、探して欲しいといわれた名刺を探してみた。


 棚には一式シルクのパジャマ。鏡。懐中時計。白い茶器。

 銀のストレーナー。ドザール。ティーコジー。

 物は少ないのに、大切な物はどこへ行ってしまうのだろう。

 ねえ、シリカさん。わたしもなくしたものがあるんです。

 三年間続けた日記帳が、見つからないの。

 いつからなくしたのかも判らないの。

 でも、きっといつか見つかるわ。


 
 その日の夕方、アビーさんは、危篤状態に陥った。


「サンドラ、一緒にきて」

 自分がどこに連れて行かれるのかすぐに判った。

 アビーさんが、心室粗動を起こした。

 きっと、もう意識はない。
 
 その方がいいと願ってしまった。

 苦しんでいるのを見るのは辛い。

 ご両親にかけるべき言葉も見つからない。

 どうしよう。

「怖い?」

「大丈夫です」

 わたしは眼の奥に力をこめた。何も溢れてこないように。

 しかし、その病室は不思議な光景に包まれていた。

 アビーさんが、起座の状態で「喉が渇いた」と喋ったのだ。

「レモネードが飲みたい。ママの冷たいレモネードが、飲みたい」

 ご両親は、その言葉に衝撃を受けたようだ。

 今、水分をとることは、彼女にとってとどめを刺されるようなものだった。

 もう最後だと判っていても、医師はそれを認めることはできない。

 しかし、奥様は瓶にいっぱいのレモネードを用意していた。

 あとから駆け付けたヘリオトロープ牧師が、部屋の扉を閉めて、

 担当医に頷いている。

「今、あげるわ、アビー。沢山、沢山飲みなさい」

 止める者は誰もいなかった。

 まるで、申し合わせたかのように、最期のレモネードが用意されていた。

 アビーさんの紫色の唇がストローを捉え、レモネードが飲み下されてゆく。

 ごくり。

 アビーさんの眼に、光が宿った。

 だらりと垂れていた腕を持ち上げ、グラスを手に取る。

 ストローを捨て、グラスに口をつける。

 氷を噛み砕く音が、響いた。彼女の鼓動のように、響いた。

 アビーさんは、三杯のレモネードを一気に飲み干して、

 グラスを取り落した。

 その娘の身体をご両親が受けとめる。

「ありがとう…ママ、パパ…おいしかったよ…ありがとう…」

 ヘリオトロープ牧師の聖書の言葉が聞こえた。

 わたしの眼の前は、歓喜の泪で眩しく光り、何も見えなくなった。

「アビー、愛しているよ」

 ご主人の慟哭が響いて、わたしはますます遠くへ弾き飛ばされた。



 気付くと、礼拝堂にいた。

 アビーさんが眠っていて、ひとりずつ花を手向けに席を立つ。

「大丈夫? サンドラ。貴女また気を失って」

「大丈夫です」

 ああ、慟哭渦巻く白い庭に、シリカさんがいる。

 何かを持っている。

 なんだろう。

 柔らかくて、真っ白な、それは。

 わたしはアビーさんの頬の横に、白いユリを置いた。

 わたしたち、言葉を交わすことすらしていない。

 でも、貴女の死が哀しい。怖いわ。怖かったのは、貴女なのにね。

 その時、

 礼拝堂の扉が開いた。

 ヘリオトロープ牧師が手を挙げた。

 アビーさんのご両親が立ち上がり、

 入ってきた人物に、深々と、首を垂れた。

 シリカさんが、真っ白なドレスと、バラの花束を持って歩んできた。

 眠るアビーを見つけると、彼の表情に微かに笑みが浮かんだ。

 少女にドレスを被せ、バラを置いて、シリカさんは、

 そっと、口づけた。

 永遠に、君を、愛する、と誓って。

 彼が開け放した扉から、白い花弁が鳥のように飛びこんでくる。

 あたりは真っ白になった。


 

 少女は、無数の名もなき塵となる。

 もう、なにものにも縛られない。

 全ては意味を失った。

 この星に起こったこと。

 自分が産まれ、生きたこと。

 それだけを、我々は教えられた。

 
 
 そこに仕組まれた契約を、わたしはまだ知らないでいた。


 
 
 あの娘を鍵で 閉じ込めろ 閉じ込めろ

 あの娘を 閉じ込めろ  マイ・フェア・レイディー