雪が降り積もった朝のように、静かな夜明けがいくつも通り過ぎていった。

眠りに落ちては繰り返し見るものは決まっていて、

白い花弁に埋もれゆくシリカさんの夢。

わたしは、アビーさんが亡くなったあの日以来、

体調がすぐれず、ずっと、寮のベッドの中で過ごしていた。

一人で眠るのは嫌いだ。
 
眼を覚ますと、自分がどの時代を生きているのか判らなくなる。

こんな時は、母さんの声が、無性に聞きたくなる。

でも、考えてはいけない。

今日もわたしは、当たり前のように一人だった。

外では、季節が移りかわろうとしている。

カーテンを揺らして入ってくる風が心地よい。

何日も水すら飲まずに、身を横たえていた。

わたしの心を重たいものにしていたのは、

アビーさんの死ではなく、

この世に残されてまだ生きていくシリカさんのことだった。
 
彼がyとにかく心配だった。

でも、歩みよるのが怖かった。

なんと言葉をかけたらいいのか判らなかった。

シリカさんの静かな哀しみが、わたしの心臓に浸潤してくる。

あの日。

バラが散り終わった庭のガゼボに身を隠したきり出てこなかったシリカさん。

ヘリオトロープ牧師が、ずっとそばにいてくれたと聞いたが、

わたしはそこへ踏みこむことができない。

人を守り切れない、かばうことすらできない自分の弱さを、思い知らされた。

わたしは何を信じていたのだろう。

何を誓ったのだろう。

この弱さに打ち勝てず、座りこみ動けなくなった。



また、風が吹いた。

甘い香りを運んでくる風の中に、突如、悲鳴が割りこんできた。

眼を見開いたわたしの脳裏に広がったのは、

幼いアビーさんの顔だ。

「助けて…!!」

その声が、「兄様!」と呼んだあの声に重なる。

「アビーさん…」

わたしは、ふらふらと部屋を出た。



寮の門扉を押し開き、通りへ出ると、すぐそばで声がした。


「助けて…誰か、助けて!」

こちらに駆けてくるのは、アビーさんだった。

そして、その後ろに、斧を振りかざして追ってくる真っ黒な男。

わたしは咄嗟に、飛びこんできた少女を背中にかばった。

男はわたしの視線を捕えると、笑い声をあげながら、斧を振りかざす。

ふと、背後のひとの気配が消えた。

アビーさんが消えていた。

狙われていたのは、わたしだった。

恐怖に身がすくみ、一歩も動けず、座りこむ。

斧が頭の上に落ちてくる。


ダメだ。殺される…

その時。

わたしと男の間に、割って入ったものがいた。

黒いスーツの男性で、まるで、わたしをかばうかのように。

…そして。眼の前が真っ赤になった。

ゴトンと重たいものが転がった。

アビーさんのお父様だった。彼の頭が、切り落とされて、転がっていた。

狂った男は、血しぶきを浴びながら、まだわたしに迫ってくる。

すると今度は、喪服を着た女性が、短剣を握りしめて飛びこんできた。

男の首に、短剣は深々と刺さっていたが、

男の笑い声は止まらず、

夫人の、アビーさんのお母様の首が飛ばされる。

男は斧を取り落すと、フラフラしながら、わたしに歩みよってきた。

「誰が守護者だとぬかすのは! おまえか、おまえに守れるのか!」

男は笑いながら、わたしの頤を掴んで叫んだ。

「おまえに何が守れる!? 守れるものなど、ありはしないのだ!」

男に右目を舐められて、わたしは狂いそうになった。

「うわああああああああああ!!!!!」

男を突き飛ばし、道に落ちていた短剣を掴んで、

道路に転がり、笑い転げている男の口に、

「ああああああああ!!!!」

短剣をねじこむ。

「ロンドン橋落ちる 落ちる 落ちる

 ロンドン橋落ちる 落ちる 落ちる

 ロンドン橋落ちる 落ちる 落ちる…」

呪文のように、わたしの舌が繰り返す。

わたしの喉が、繰り返す。

「落ちる、落ちる、落ちる…」

真っ黒な男は、絶命していた。

「お嬢さん、大丈夫か!」

警官が走ってきた。

通りは、三人の血で、真っ赤に染まっていて、

わたしは意識を失った。



気付くと、ヘリオトロープ牧師がいた。

ここは、病院のようだ。

ショック状態だったが、わたしは怪我ひとつしていない。

「アビーさんの…ご両親が…」

わたしの」唇に指をあてて、牧師先生がうなづいた。

「シャワーを浴びておいで」

「…はい」

アイリーンが、わたしの身体を支えてくれた。

シャワールームで、鉄臭い血を流していると、

心が静まり返っていった。

「もう…生きる意味がない」

そんな言葉が、静かな水面に波紋を広げるように、広がってゆく。

シリカさんだ。

わたしはハッとする。

「誰かを幸せにするために、自分の命はあるのだと思っていた。

誰かのために、生きたかった」

諦めたらダメだ。

わたしはバスタオルを巻きつけて、

濡れたままの足で走った。



あの庭に、シリカさんがいた。

黒い影が、彼に寄り添っていた。

「諦めは心の養生だよ」

そんな場違いな、優しい言葉を発する黒い影。

「でも、あの子の、最期の想いなんだ」

それを聞いて、理解した。

誰かのために生きたかったのは、アビーさんだった。

シリカさんのために、生きたかったアビーさん。

「ひとは欲深い」

黒い影が云った。「また、こんな想いを残して」

「それが、人です」

シリカさんが云った。「本当に、可愛らしい」

彼が、わたしに気付くと、黒い影は消えた。

わたしは、彼の眼を見て、

悪い夢から覚めたような気分になった。

「今のは、なに?」

シリカさんは、口の前に指を立てる。

それに触れてはならないと。

「寒いでしょうに」

シリカさんが自分のケープを貸してくれた。

ああ、この人は強いんだ。

わたしは、こみあげてくるものを我慢できない。

「貴女の所為ではないですよ」

彼は、全てを知っているようだった。

「何が起こっていたのでしょう」

と、わたしが聞いた。

「小さな契約です」

シリカさんが云った。

「もう、終わりました。人の命はもろいですね」

「わたしはシリカさんが心配です」

「本当に、貴女は優しく、そして強い」

シリカさんが笑う。

わたしは強くなんてないのに。

「だから、ここに来てしまったのかも知れません」

わたしの心は怯えていた。

その答えに。

「少しずつ紐解いていきませんか。私と貴女は似ている。

ここで出会ったのも、運命(さだめ)なのかも知れませんね」





この闇の深さから眼を逸らして。

わたしは、差し出されたシリカさんの手を取った。


「生きたかった」

そんな声が、止まらないの。

ずっとずっと、響き続ける歌があるの。

きっと、わたしは何かに気付いてしまったんだ。




翌なき春。

幾多の祈りだけが、この庭に生き続けるのでしょうか。