more than words
 そう、確かあの日も、こんな風に煙るような雨だった。錆びた釘を飲み込んだように胸が鈍く痛かったけど、泣くことはできなかった。
 彼を私から解放してあげたかった。自由な彼を縛りたくなかった。だから、あの冷たい言葉が私の精一杯の優しさだったのだと、その時は思っていた。だけどあれから何人かの男の人とつき合って、その内の何人かには振られたし、何人かにはこちらから別れを告げた。だけど、あんなに酷い別れ方はあの時だけだった。
 彼を傷つけた、その時の感触が今も胸に残っている。まるで鈍い刃物で、切りつけたかのように、今でもじりじりと痛む。言葉は諸刃の剣だ。あの後、私の名前を呼んだ後、彼はどんな顔をしていたのだろうか。泣きそうな顔をしていただろうか。それとも、ほっとした?
 私は思わず溜め息をついた。いつの間にか、曲は終わっていた。最後のフレーズだけが、耳に残った。“More than word”
 言葉より、何だと言うのだろう。話すのが苦手だった彼の好きな曲。最後に彼は本当は何が言いたかったのだろうか。今となっては、もう考えても仕方がないけど。
 信号待ち。ごそごそと手を伸ばし、煙草を探す。火のついた煙草をじっと見つめる。彼の、匂い。そういえば、大嫌いだった煙草を吸い出したのは、別れてからだった。匂いが、恋しくて。手元が寂しくて。気がつくといつの間にか、煙草を持ったまま前髪をかきあげる仕種さえ、移っている。思い出が消えても残る習慣というのは、確かにある。
 初めに好きになったのは、声だった。その声でそっと名前を呼ばれるのが好きだった。話の途中で不意に言葉に詰まって、もどかしそうに手を握りしめる癖。普段は無愛想だけど、私が笑うと釣り込まれたように微かに笑った。その顔も好きだった。電話が嫌いで、いつも不機嫌そうにぼそぼそと話した。傘が嫌いで、いつも濡れながら平気で歩いていた。それから。
「何、考えてるの?」
 不意に助手席から声が聞こえて、私は飛び上がるほど驚いた。見るととっくに信号は変わっている。私は慌てて車を発進させて、横を見た。眠っているとばかり、思っていた。むっくりと大柄な身体を起こした彼は、一つ大きな欠伸をしてみせた。そして、意地悪そうに笑った。
「泣きそうな、顔、してた。昔の男のこと、考えてたんだろう?」
 何もかも見透かしているかのような、瞳。私はつんと口をとがらせた。
「私、あなたの、その何でも知ってるんだぞ、って顔、嫌い」
「だって、そんな顔してるからさ」
 悪びれた様子もなく、彼はそう言って大きく伸びをした。シートがみしみし音を立てる。
「そういうの、聞かぬが花、っていうの」
「成程」
 私が澄ました顔で言うと、彼は生真面目にうなずいた。
「知らぬが仏、とも言うよな」
 私は思わず笑い出した。
「そういう素直なところ、大好きよ」
 私が言うと、彼は今更のように照れて笑った。
「よく寝てたね。疲れた?」
「そりゃ、ね。緊張してたからね」
 彼の言葉に私はくすくすと笑った。
「そんな緊張することないのに。うちの父なら二つ返事だって言ってたでしょう?」
「まぁ、一応、丹精込めて育てたお嬢さんを貰おうってんだからね、いくら俺でも緊張はしますよ」
 柄じゃないかもしれないけど、と言って彼は笑った。
「娘って言っても、三十路も近くなれば、熨斗つけて貰ってくださいってなものよ」
「成程」
 そこで納得するかね、と私は気づかれないように苦笑した。あの彼なら凄く困った顔をするだろうな、とふと考えて、慌てて頭から彼の面影を追い出した。どうかしてる。どうして今日はこんなに思い出すのだろう。雨の所為だろうか。
「……後悔、してる?」
 ふと気づくと、傍らの彼が心配そうな顔で覗き込んでいた。私は慌てて笑顔を作ろうとして、不意に唇を噛んだ。
「ね、怒らないで聞いてね」
「……何?」
 珍しく彼が真顔になった。私はゆっくりと路肩に車を止めた。サイドブレーキを踏んで、改めて向き直る。
「ごめん。迷ったみたい」
「……へ?」
 彼が慌てて周囲を見渡す。海沿いの一本道。左は山、右は海。
「ちょっと待て。ここ、どこだ?」
 夜半前に鳥取から大阪に向けてたった筈。私は黙って上の表示を指さした。矢印と出雲という文字。
「……お前、地元だから、任せろって言ってなかった? 抜け道があるから、って?」
「五年ぶりともなると、色々変わってるのよねー」
 私が澄まして言うと、彼はがしがしと頭をかいた。そして後ろの座席を示す。
「運転、変われ」
「……ごめん。後悔、してる?」
 殊勝にごそごそと後ろの座席に移ると、窮屈そうに彼が運転席に移り、座席を直している。その耳元に囁くと、彼はくっと喉の奥で笑った。
「ばーか」
 私は少しほっとして、ごそごそと助手席に移った。それを確かめてから、彼は勢いよく発車し、少し乱暴にUターンさせた。そしてラジオの音楽に合わせて調子外れの口笛を吹いた。
 相変わらず振り続く雨を見ながら、ふと思う。あの彼は今頃どうしているのだろうか。誰と一緒にいるのだろう。他の誰かにあの曲を歌ってあげているのだろうか。
 それならいい、と私は思った。負け惜しみでなく、心から。だって、嫌いになったわけではなかったから。私は一緒に幸せにはなれなかったけど、他の誰かと幸せになってくれていればいい、と。
 どんな言葉よりも確かな、それは祈りにも似た気持ち。
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