more than words

 笙子さんの家は、彼に買ってもらったという物凄く高そうなマンションで、もうそこの合鍵も貰っているのだけど、やっぱりドアの前でためらってチャイムを鳴らしてしまう。邪魔なら、シカトすればいい。そう思って。
 それで扉を開くなら、迎え入れてくれる気があるのだろうと。
 チャイムを鳴らすと、彼女は確かめることもなく扉を開く。そして当然のように僕を招き入れる。遅かったね、とか、待ってたとか、彼女は言わない。もっとも僕も今日行くとか、行かないとかは言っていないけど。
 笙子さんの部屋は、女の人にしては無機質で、何もない。と、言っても、僕の部屋みたいに本当に何もないわけではなくて(家にはテレビも電話さえもない)、ソファとかオーディオとかはあるけど、ホテルの家具みたいで生活感がない。
 その日彼女は電話中で、電話をあごで挟んだまま僕を部屋に上げた。彼女には電話が多い。仕事の話の時もあるし、友達の場合もあるし、そして彼の場合もある。彼のことを彼女は隠さない。
 昨日は金曜日で、窓辺に少ししおれた花が飾ってある。金曜日は毎週一回彼が訪ねてくる日で、彼女は前日から窓辺に花を活けて、嬉しそうに部屋中を磨き上げる。そして僕に向かって、すまなそうな顔で言うのだった。『ねえ、明日はどうしてる?』
 それを見ていて、母親を思い出した。決まって父の不在の夜の、突然の電話。嬉しそうな顔を隠そうともせずに、華やいだ声で話す母。あんな艶やかな顔を、父親の前では見たことがない。そして部屋を片付け、まだ幼い僕に言うのだ。『いい子ね、叔父さんと遊んでいらっしゃい』、と。その意味を、僕は判っていたのかもしれない。だけど、父親には言わなかった。母の弟である店長と、言い争う声も、聞かなかった振りをした。それが偽りであったとしても、僕にとってはまぎれもない家族だった。それを壊したくはなかった。だけど、母親はいつものように僕を店長に預けたまま姿を消した。
「……恭。恭ちゃん」
 不意に名を呼ばれて、顔を上げる。笙子さんがまだ笑いの残った顔で、電話を差し出す。僕に?誰から?
「ブラッセリーの店長から」
 後で知った話だけど、店長と笙子さんは古い知り合いだったらしい。お喋りな店長の所為で、今や彼女は僕のことを僕以上に知っている。
 僕が心底嫌な顔をしたのを見て、笙子さんはくすくすと笑って電話を押しつけた。電話は嫌いだ。判ってるくせに。
「用は何?」
 紋切調。不機嫌な低い声。なのに、店長は相変わらずだな、と笑った。店長とは先刻まで会っていたのに。
「義兄さんの、七回忌。そろそろだろ?」
「何、それ?」
 店長の言葉に、僕はまた心底うんざりする。無責任な姉の行動に責任を感じているのかもしれないけど、もう彼には何の関係もないのに。なのに、自然な口調で、日にちまで決めている。僕にはどこにいるのかも判らない親戚たちにも連絡してくれるという。どうしてなんだろう。
 どうして、そんなことができるのだろう。
「どうせ、恭はダークスーツなんて、持ってないだろう。勝則にでも借りておけ」
 スーツ着て、寺に行って、訳の判らない念仏を聞いて、もう顔も忘れた親戚たちの説教を聞いて。
「逃げるなよ。お前がいなければ、俺が行く意味がないんだから」
 僕の心中を察して、釘を刺すのも忘れないで。どうしてだろう。どうして、そんな普通のことが、僕にはできないのだろう。
 どこで間違えたのだろう。
 適当な返事を返して電話を切ると、笙子さんが一人で飲みながらにやにや笑っていた。
「お姉さんが、スーツ、買ってあげましょうか?」
「……いらない」
 どうせ、滅多に着ないから。ぼそっと口の中で呟いて、笙子さんのグラスを横取りする。一口飲んで、思わずむせた。
「何、これ?」
「ジンとキュンメル」
 済ました顔で笙子さんは言って、グラスを取り上げた。彼女は酒飲みだ。アル中なのよ、といつも笑う。少女のような顔で、きつい酒を飲む。一人でいると淋しくて、ついつい飲んでしまうのだと。だったら、普通の人と結婚でもすればいいのに、生活感のない部屋で週一回くる男を待って、童話のような歌を歌っている。
 自分で水割りを作って(笙子さんに作って貰うと、何でも無茶苦茶濃いから)、部屋の隅に座りこむ。窓の外は、しっとりと雨に濡れている。にじんだ夜景が、下界に広がる。
「恭、って野良猫みたい」
 歌うように言って、笙子さんも傍らに座り込んだ。そして僕の肩に気だるげにもたれた。ほのかな、香水の香り。
「どこにいても、そうやっていつも遠くを見てる。そうして、いつかどこかに行っちゃうんだわ。残される者の気持ちなんて、判らないでしょう」
 酔った笙子さんは饒舌だ。繰り言のように、何度も同じことを言う。だから、本当は僕にではなく彼に捨てられることを恐れているのではないのか、とは言えない。熱っぽく見つめる瞳は、僕を通してどこか遠い人を見つめている。
「ね、歌ってよ」
 床に転がっているギターを引き寄せて、笙子さんが言う。偽りの言葉を紡いだ歌を聞きたがる。何も生み出さない不毛な関係。ここは、こここそが、歪んだ王国だった。

< 6 / 8 >

この作品をシェア

pagetop