HAPPY CLOVER 3-夏休みの魔物-
「サヤカさんっていうのは、中学のとき俺が初めて付き合った人。二つ年上で英理子のおばさんのピアノ教室に通っていた」

「サヤカ……って、小原(おばら)さやかさん? ウィーンに留学した?」

 私は母と姉の話を思い出していた。彼女は神崎ピアノ教室では誰もが一目置く才能の持ち主だったと聞いている。

「そう。発表会で見たことあるでしょ?」

「うん。さやかさんの演奏で先生……英理子さんのお母さんがステージの袖で泣いたって、姉が言ってた」

 毎年、ピアノの発表会で彼女が弾く曲は先生が聴きたいからという理由で選曲されていたそうだ。確かに音楽の道に詳しくはない私でも、彼女の演奏の表現力には圧倒されるものがあった。

 ――初めて付き合った人、か……。

 私は何となく気まずくて清水くんから視線を逸らす。

「でも付き合っていたと言っても、恋人らしいことは何もできなかった。すぐにウィーンに留学することが決まって会えなくなったから」

「…………」

 唇をぎゅっと結んだまま、かなり離れた向かい側の壁に貼ってある大きな温泉のポスターを見ていた。さっきまで発火しそうだった私の身体は、汗が冷えて急速に体温が奪われていく。

「それに向こうから好きだと言われて付き合うことになったから、俺自身は常に受身だった。別れてからやっと『やっぱりもう一度会いたい』ってことに気がついたけど、時は既に遅し。今考えれば、あまりにも俺がガキで何もできずに終わったってこと」

「何もできずに……」

 いろいろと含みのありそうなセリフだな、と思う。そこを聞き逃さない私は、たぶんものすごくさやかさんに嫉妬しているのだ。

「そう。何もしなかった」

「何も?」

「うん。こんなふうに隣に座ることすらもない」

「え?」

 私はおそるおそる隣を見た。

 清水くんは私の腕を放し、足を組んでまた少しだらしない姿勢になる。それが何だか様になっているから、この男は得だなと思う。

「こうして半径一メートル以内にいる時間は、舞のほうが長い」

「ウソ……」

 即座に隣でフッと笑う声が聞こえた。

「ウソじゃない。しかもあまり言いたくないけど……」

 そこで清水くんは大きくため息をついた。そして私の顔を見る。

「その後付き合った彼女っていうのはみんな、相手から告られて断る理由がないから付き合ってみただけで、結局俺の気持ちがついていかないっていうか……」

「……それは、酷い……」

 思わずそう口走っていた。これまで異性と付き合った経験のない私だって、自分に気持ちがない彼氏なんてゾッとする。

 清水くんは私から顔を背けた。

「だよね。俺も最低だと思う」

 そこで私はハッとした。



 ――え、……ってことは何? 私のこともそうなの!?



 胸がズキンズキンと痛み始める。酸欠になったよう息苦しさだ。

「今日が初めてかも」

 その言葉の意味がわからず、悔しそうな表情の清水くんをじっと見つめた。



「舞をとられたくないって思った」



 彼がゆっくりとこちらを向いた。柔らかい微笑が眩しい。今日はずっと冷たい表情ばかりだったから、その笑顔に懐かしさすら覚えた。

 ずっと見ていたいと思う私の気持ちをよそに、清水くんはケータイを取り出して「そろそろ時間だ」とつぶやいた。仕方なくホームへと向かう。

「清水くんの電車は?」

「俺は大丈夫。一時間に最低二本走ってるから。舞はこれを逃したら特急に乗らないといけなくなるでしょ」

 ――ぐっ……。そうなんです。家が田舎ですみません。

 でも考えてみれば、清水くんは私の電車の時間に合わせて待っていてくれたことになる。

「あの、ありがとう」

 私は言葉を端折った。察しのいい彼のことだから全部を言わなくてもきっとわかってくれるはず。

「いいよ、お礼なんて。ほっぺにちゅーとかで」

 そう言った清水くんの笑顔はいつもと違って少し翳りがあるように見えた。ホームへ向かう階段が暗いからそう見えただけかもしれない。

 ――でも……!

 階段を昇る清水くんのTシャツを鷲掴みして振り向かせると、私は数段駆け上がって彼の一段上に立ち、「えいっ」と彼の頬に自分の唇を押し付けた。

 それから「じゃあまた明日」と言い捨てると、彼の顔も見ずに一目散に走って逃げた。 



 ――うわーっ! やっちゃった!



 冗談を本気にするなんて寒すぎる。でも清水くんのあんな顔を見て、何もせずに彼から離れることが我慢ならなかったのだ。

 ――いや、でも、いきなり私から……とか!

 自分のやってしまったことを思い返し、誰が見ているわけでもないのにうつむいて真っ赤になった頬を押さえた。

 明日、どんな顔をしたらいいのだろう。だあっ! もうっ!

 でも不思議と後悔する気持ちはない。むしろこみ上げてくる笑いをこらえるのが辛くて、電車の利用客が少ない田舎に住んでいることを心からラッキーだと思う能天気な私だった。
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