ホーリー 第一部
 景色がゆっくり流れた。少年たちは、またも二人乗りの驢馬車に乗っていた。ロミーという驢馬の魔法で、少女の棲み家から少年の棲み家まで、ゆっくりと寄り道をしながら向かっていた。碧く澄み渡った空の光彩の下、新緑の若葉が燃え盛る山間の道や、迷路のように入り組んだ幽霊たちの街を通り抜け、擬態石の橋を渡った。大きく山なりに架かった橋は、空に伸びて、その色を同調させて、まるで空の上を駆けているかのような錯覚を起こさせた。そこで、少年たちはまた仲間たちとの周波数に目を凝らした。頭上に虹色のカーテンが懸かる。空が近いから、ひとつひとつの煌めきがよく見える。その近さが、うれしくて、灯るくて、少年たちは屈託もなく笑った。そんなふたりを背中に感じて、ロミーもまたうれしくなって足音で軽やかに唄った。パカパカカンと、踊るような、陽気でどこか古めかしいワルツを、揺籃のように穏やかな世界に打ち響かせていた。
 擬態石の橋を渡ってから、少年たちは想い出話にふけった。“ピンクムーンの森”、少年たちのかつての住み処である大きな森林都市。多くの人や動物が集う街。老賢な樹木たちが深い慈愛と柔和な智慧で豊かな恵みを育む森。樹の幹や根、枝の上、木の葉のテントや枯れ枝の小屋、それから土の中なんかに住居やお店がたくさん軒を連ねている。賑やかで、活気に溢れてはいるけれど、けして森との調和を崩すことはなく、その多大な恩恵に感謝を忘れる者はいない。そして昼も夜も空に懸かった不思議な月が、何処か寂しげな深い光で静かに街を包んでいる。その霊妙な月の優しさなのか、集った者たちのぬくもりなのか、あるいは森の慈しみか、“ピンクムーンの森”は少年たちにとってもっとも心を赦すことのできる街だった。事実、傷ついたものや旅に疲れたものが癒しを求めてたくさん流れ着く街でもあった。かつて、少年の下に家出してきたばかりの仔猫の少女は、その街で力の限りに“こころ”を歌い、そんな彼らとあっという間に打ち解けたものだった。少女は、じぶんの存在を快く受け止めてくれたことに、暖かく迎え入れてくれたことに、痛いくらい感謝していた。そしてもちろん、そうして出会ったみんなのことが大好きで、しょっちゅう恋しい想いを募らせてもいるのだった。そして少年もまた、別離した友人たちに会いたくなるという気持ちはおなじだった。ふたりはいっしょに森に住んでいたころの想い出を、その大切な一つ一つを語り合った。もうすぐ彼らに会いにいけるのがうれしくて、ふたりは思わず声も心も弾ませ、羊水のように暖かいおとぎ話の数々を驢馬車の中にフワフワとめぐらせた。まるで夏のお祭りの、手造りの走馬灯みたいに。その幻想的でこどもっぽいよろこびみたいに。

 「ほにゃぁあ~~」
 少年の部屋で、仔猫の少女がどっと疲れたとばかりに大きな息を吐く。ふたりは楽器の練習を、ふたりでいっしょに奏でる楽曲の練習をしているところだった。
 「うん。ちょっと疲れちゃったね。ひとやすみしよっか」
 「んにゃ、んにゃ」
 少女はそうつぶやきながら、小さな桜色のギターを床に置き、木の葉を敷き詰めたベッドの上にへた~っと倒れ込んだ。ただでさえすぐに疲れてしまう状態の少女に、まだ覚えたてのギターを根を詰めて弾くことは少ししんどかったのだろう。それでも、お祭りが近いから、それなのにまだぜんぜんじゅんびができていないからと、少女はからだにまた少し無理を掛けているのだった。たぶん、少年の脚を引っ張りたくないという焦りもあったのだろう。少女には、そうやって、いつもじぶんに過度な負荷を掛けようとする傾向があった。とにかく一生懸命で。それはときどき、頑ななまでに強迫観念的で。別人みたいになることと地続きでもあって。ピンクムーンの森にいた頃、少年はそんな少女の繊細なうつろいを的確に受けとめることができなかった。だから少女はよく別人のような状態に陥って失踪をしたものだった。森の中のかくれんぼ。少年はだいたいの場合、すぐに少女を見つけることができた。でも、きっと、けっきょくはなんにもみつけられていなかったのだろう。なんにもわかってやしなかったんだから。それでも今、少年はすこしずつ変わっていこうとしていた。そして、きっと少女の方はずいぶんまえから。それぞれが今の棲み処に移ってすぐの頃は、ひどく険悪になったこともあった。その頃、少女はきっと少年に激しく失望していて、そしてなによりもそんなじぶん自身がすごくイヤになったりもしたのだと思う。少年の方もまたそんな状況を招いたことに、その愚かさにじぶんを赦せなくなった。それでも、ふたりは少しずつ前に進めてきたのだろう。いつからか少女は少年に対して、すごく素直に心を赦すようになった。少年はそれがうれしくって、あらためて、少女を大切にしたいと想った。今度こそ、大切なものをほんとうに大切にしたいと。そうして、少年はじぶんに欠けている能力も少しずつ磨いていこうと模索するのだった。できることなら完璧に少しでも近づこうと。ほんとうのやさしさには、愛することには、能力は欠かせないのだと少年は考えていた。洞察力も、機知も、思慮深さも、足りないのは言い訳にもならないのだ。きっと、才能がなくたって生き方しだいで磨くことだってできるのだから。
 
 「うん、きょうはよくがんばったね」
 少年はそう云いながら、少女のあたまをふうわりと撫でる。
 「んにゃぁ」
 少女はうれしそうに、少し安心したように、耳をふにゃりとさせる。
 そこに、うさぎのぬいぐるみが一方はトテトテと、もう一方はのそのそと近づいてくる。
 「ふにゃあぁ」
 少女はますますうれしそうな声で鳴く。大きなうさぎが、そのちいさなまるい手でちょこんと少女のあたまに触れたのだ。そして、のそのそ、のそのそ、とさする。ちいさなうさぎもいっしょになって、その鼻先で少女のあたまをスンスン、スンスン、とさする。ふたりともぶきっちょに。でもそれがなぜだかやさしくて、少女は安心しきったようにすうすうと短い眠りについた。
 「え・・・?なに・・・これ?」
 少年は眠ってしまった少女を安らかな眼差しで見つめていたけれど、ある不穏なしるしに気がついて我が目を疑った。少女の肩に霧が、しかも真っ黒な霧がじわじわと滲みあがっているのだった。
 「また・・・なの?(・ω・)」
 「うん・・・そうみたいなのだ・・・いつかはこうなること・・・わかっていたけど・・・(-ω-)」
 「そう・・・だね・・・でもこんなに早いなんて・・・(・ω・)」
 うさぎたちは、なにか少年にわからないことを話し合っている。結界がどうとか、悪魔がどうとか、眠りがどうとか。いつも通り大事なところは、霧がかかって、断片的にしか聞き取れなかったけれど。うさぎたちは、少年よりも少女との付き合いがずっと永いのだ。それにふだんはおとぼけていても、ふたりはもともとは何百年も生きている賢者なのだ。ふたりともみんなとおなじで過去のことはちゃんと覚えていなくて、その智慧もほとんどを失っているのだけど。それでもうさぎたちは少年と少女のことは誰よりも、きっと本人たちよりもずっとよく理解していた。とくに少女のことは、記憶のある限り、ずっと見守ってきたらしいのだから。
 「なに・・・これ?なんなん?これ??」
 わかっていた。きっとこのまえ、久しぶりに見た異世界の夢での、“あの仔”のあのことばが関係しているのだろう。それはわかっていた。それでも、なにもわからなくて、その不吉さを受け入れられなくって、少年はただうろたえることしかできなかった。
 「シェフ・・・(-ω-)」
 大きなうさぎが、まるい手で少年の背中をちょんっとつつく。少年はハッとなって、じぶんが我を失っていたことに気がついた。なにかしなくちゃ。でもいったいなにを?少年は今度は煩悶に顔を歪ませた。
 「ねえ、シェフっ、ピノの肩を揉んであげて(・ω・)ノ」
 ちいさなうさぎは、少年を気遣いつつ、ほんとうにやわらかいやさしい声でそう言った。
 「うん。ピノ、“にもつ”が重くて肩が凝るって、云っていたものね」
 少年はあたまではそれが少し場違いな行動のような気がしながらも、心ではすごくそれが自然なことに思えて、言いながら、もう少女の肩に手をかけていた。
 「え・・・?」
 少年が肩を揉むとゆっくり、少しずつ、少女の肩から黒い霧が離れ、浮かび上がった。
 「シェフ・・・でもね・・・それはまたすぐにピノのからだにもどっちゃうの・・・(・ω・)」
 「そうなのだ・・・でもね・・・それで少しでもピノは“あんみん”ができるからね。また揉んであげて欲しいのだっ(-ω-)ノ」
 「うん・・・もちろんだよ」
 少年はじぶんの無力を恥じながら、それでもできることがあるのだということを噛み締めながら、少し泣きそうな調子で言った。それからまたうさぎたちは、今度はうさぎどうしにしかわからないことばで、なにかとても真剣に話し込んでいた。そして、明日からうさぎたちは少女といっしょにきのこハウスに住むことに決まった。これからはじぶんたちがすぐそばで見守っていなければ危ないのだと、うさぎたちは云う。それに、なにか早急に手を打たなければいけないことがあるということだった。少年は、やっぱり無力だと思った。それでも、うさぎたちがなにも云わないってことは、きっとじぶんにはなにかべつにできることがあるのだろうと考えた。それがなんなのか、てんでわからなかったけれど。肩からすっかり離れ浮かび上がった黒い霧は、まるでストーカーみたいにジロジロと陰湿に、少女のからだにあるはずもない視線を嬲りつけていた。


  
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