ホーリー 第一部
第四話 story

 あの不思議な夢を見るようになったのはいつからだったろうか。はじめは、ただ空ろで、寂しかった。なんにもない原っぱに、古めかしい火消し壺だけが茫漠とあって、ぼくはそれをただ淡々と眺めていた。景色だけが何処か牧歌的で暖かくて、なんにもないから、静かだから、やっぱり寂しかった。物心がついた頃から、そんな夢を見ていた。ぼくははじめ、ときどき見るその夢のことを、単に、自らの無意識の何らかの表象だと思っていた。そうして夢のことはあんまり考えないまま、くだらない日々を盲目的に繰り返した。17歳になった日の夜のこと、突然、夢に大きな変化が起きた。それから、ぼくの人生はたぶん少しずつ変わり始めた。

 何処か遠くから、火打石の鳴る音が風に乗って聞こえてくる、そんな夜だった。ヒューッと呻く風の声と、カチンッカチンッと鳴る火打石の音が原始的な音楽を奏でていた。ぼくはいつも通り、暖かくって寂しい景色を意味なんかないのにうっすらと眺めていた。すると突然、火消し壺の中から、ひょこっと、犬みたいな耳を生やしたあたまが飛び出てきたのだった。そのとぼけたような、ぴんと立った耳が視界に入ってきたときは、なぜだかとても懐かしい心地がして、それに人に出会えたことがうれしくって、ほんとうに、幸せになった気がした。そのときからもう、壺からおそるおそる這い出てきた少年の心が、なぜだかじぶんのことのように自然と感じ取れた。でも、幸せな気分は一瞬にして崩れ落ちた。読み取った少年の心の中身に、余計に寂しくなるばかりだった。はじめの彼は、ほんとうに空ろだった。心に穴があったというのではない。ただ空ろだった。なにもなかった。記憶も、ない。感情も希薄で、無機質で、熱さも暖かさもなく、それでいて、満たされていた。まるで、生まれたての木偶人形みたいだった。首からぶら下げた指輪だけがとても暖かくって、それを見るときだけ、少年の心が熱く波打つのを感じた。心になにも持たない少年にとって、それだけが希望であり、ぬくもりだった。これは少年自身が後に語ったことばだけど、「気がついたら、なにか暗くて狭いところにいて、じぶんがなんなのか、今なにを感じてるのかも、よくわからなかったんだ。それをわかっていないっていうことすらね。でも首元にボロけた指輪がぶら下がっていて、それを見てるとなぜだかちょっとずつ心がじぶんのものになっていく気がしたよ。そのときはそれが“暖かい”っていう感覚なんだってことまではわからなかったけれど、ね。そうやって、狭い暗がりの中ではなんにもすることもないから、ただずっとその指輪を眺めて過ごしたんだ。何年も、何年も、ね。で、何年か経ってから気づいたのだけど、その指輪にはちいちゃく“ロロ”って刻まれてあったんだ。その二文字の響きも、磨り傷に埋もれて今にも消えそうな彫刻も、すごく懐かしい心地がして、あ~これがきっとぼくのなまえなんだろうなって想ったよ。あと、なぜだか“ピノ”ってことばがあたまに強く浮かんだのを覚えているよ」そうして、また何年か過ごしていると、あるとき、突然その暗がりの上にキラキラと輝く満天の星を見つけたのだと云う。目覚め。永い忘却のあと、少年はひょこひょこと火消し壺の中から這い出て、歩き出した。あてもなく、心にひとつだけ、つよく灯る“ピノ”ということばのぬくもりを探して。

 そのあとは、ほんとにいろいろなことがあった。とても永い旅で、いろいろな人に会いながら、少年は知恵や感情を学んでいった。感情を学ぶなんて、陳腐な表現だろうけど。だって、はじめはただ真似事をするばっかりだった。周りの顔を伺っては「あ~、今は泣くときなのか」とか「あ、怒らなきゃ、怒らなきゃ」だとか、そうやって育んでいった虚像を、じぶんだと想いこむことすらままならなくっていった。いつもうそら寒い猜疑心でいっぱいだった。だからともだちだとかなかまだとかっていうことばが、少年にはよくわからなかった。ただそういったものへの憧れだけがあった。だからわかったふりをし続けた。やがて旅の最中、長いトンネルを抜けた先の灰色の荒野で、少年は初めて異世界の夢を見た。つまりこちらの世界の夢を。そのときに見たもの、聴いたことをきっかけに、少年の心は大きく変わっていった。少年はそれまで築き上げてきた虚像を壊した。それでいいのだと、みんなと違ってもいいのだと、ただじぶんでいてもいいのだと、そう想うことができるようになった。そのあと流れ込むようにして行き着いた森林都市で、少年はギターを手にして、少しずつ心を、音楽を、学び始めた。ゆっくりと心の帳を開きながら、少年は次第にじぶん以外の他者にも関心を示すようになっていった。第二の目覚め。それから、いろいろな人と深い交流を重ねて、少年は自らを流れる血に熱を宿していった。ひとつひとつの出会いや思い出を大切に胸に刻み込みながら。そしてその道程の、生々しい熱情やぬくもりが、こちらの世界に生きるぼくの心すらも豊かにしていった。その夢の大切さが、うれしさが、ぼくの目を覚ました。ぼくは世界が狂っていることに、世界が途方もなくくだらないことに、心底気づくことができたのだ。これを中二病と、笑いたいなら笑えばいい。いつだって、なんにもできないくせに、なんにもしようとしないくせに、心は不満と疑問でいっぱいで、都合良く、荒唐無稽な妄想ばかりを描いて、なかなか大人らしく身を固めることもできずに暮らしてきたのだから。なかなかお笑い種じゃないか。要するに、世界がくだらないことを、じぶんのモラトリアムのための体のいいネタにしてきたわけだ。そうやって二重に、誰かを食いものにしてきたのデース。ま、インテリの嗜みというやつだネ。ほら、よく似たこと、お偉い方々もよくやってらっしゃる。

 ふぅ。すこし話が逸れた。どうも自嘲癖があるね。まぁただの予定調和か。


 そして少年はそんな風に大切な日々を送るうちに、やがて“ピノ”という仔猫の少女と出会った。ふたりはあっという間に仲良しになって、すぐに“ピンクムーンの森”での共同生活を始めた。いろいろなことがあった。たくさんの新しいこと、それからたくさんの大切なことが。でも、少しずつ信頼関係は瓦解していった。砂のお城が崩れるみたいにサラサラと、致命的に。そうして、森を離れべつべつに暮らし始めたふたりに、すぐに険悪な状況が訪れた。その中で、少年は自らの欺瞞を、愚かさを、かつてなかったほどに激しくその身に灼きつけた。それからだろうか。ぼくもまた少し変わった。いや、変わろうとするようになった。“だるまさんが転んだ”みたいに、じれったく進んだり戻ったりしながら。やっぱりてんでクソッタレで。遥か古代に誰かが云っていたっていう「人は皆、生まれながらにして悪である」っていう思想が、少なくともぼくにはしっかり当てはまるんだろうなとか思った。


 ねえ、世界はおかしいよ。狂ってる。なんで誰も“昔”を覚えていないの?26年以上前の記憶があいまいなの?そのくせ、一体どうして、あたりまえに生活を続けてこれたの?詩を書けば、霧がかかる。唄を歌えど、霧がかかる。楽器の造り方?誰も知らない。くだらない。なぜこんな世界になったの?霧がかかったように、みんながなにも想い出せない。芸術や、鋭角な文化がことごとく霧に閉ざされた世界。狐につままれたような記憶喪失。何処か虫のいい、世界規模の“物忘れ”。生存活動や社会の運営にはまるきり支障がなく。ねえ、30歳以上の人間は、信じちゃいけないよ。みんなすぐに“物忘れ”が酷いから、の一言で済ませようとする。なんにも疑問を持たない。苛立つこともせずに。ただ盲目に、与えられた生活を家畜のようにやり過ごす。それでも、暮らしのために、家族のために、必死になって。良き父や良き母になって。生きる。そんな彼らに対して、ぼくたち“目覚めた”若者は何を想えばいいのだろう。いつも、揺れる。尊敬の念と、逆恨みみたいな苛立ちで割れそうになる。そして彼らは、大人になれないぼくらに、早く大人になりなよと説教をする。そしてぼくらがぼくらであるための大事なところについては、その存在すら認めようとしない。意味がわからないと、一蹴する。いっしょに居れば、誰にでも情が沸くよ。好ましい人ならなおさら。だから、じぶんの根幹を否定されることも、相手を憎く想うことも、とてもとても哀しいのにね。


 それにしても、ぼくはいったい、誰に語りかけているのだろうね。どうせ誰も読めやしないのに。ぼくは昔から、理路整然と、実質的なコミュニケーションを取ることが苦手で、いつも独りで詩を書いたり、日記を書いたりしてきた。そうやって、ゆっくり練った詩的表現に頼ることでしか、じぶんの想いの丈を言いあらわす事ができなかった。たぶん、ぼくはいつだって物事の直接的な“意味”よりも、言葉では容易に言いあらわせない“風合い”の部分に価値を置いてきたのだと思う。例えば空が何色か、じゃなくて、その空の色がどんな“風”だったかを。そして、それでどんな気持ちになったかじゃなくって、その気持ちがどんな“風”な心地だったかを。要するに、単純な意味よりも、むしろ事細かな、十人十色の“感じ方”そのものをあらわすことを欲してきたのだ。それって、けっきょくはぼくが自分自身の感性に対して、異常なくらいの執着心を持ってるってことなのだろうね。歪んだくらいに過剰な、感性への自意識と自尊心。間違ってると思う、こんなの。だからじぶんでもイヤになる。このナルシストが、って。それでも、誰も読めない詩を書いて、誰も聴けない唄を造ってきた。なんの意味もないままに。ほんとうはわかってもらいたくて。ひたすらにじぶんであるがゆえに感じる、幻想的な領域のよろこびや哀しみを誰かと共有したくって。心の深いところに、かまってほしくて。

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