ホーリー 第一部
 
 「さっきは・・・ごめんね・・・急にあんな・・・」
 「ううん・・・いいよ、そんなこと。それに・・・なんだかピノみたいで、ちょっとうれしかったよ」
 「そっか・・・うれしかったのか・・・よかった。でも、ピノみたいってほんと??」
 「うん、ほんとにピノみたいで、もうすぐに“あの仔”なんだってわかったよ。ピノ、、あ、え~と、君が抱きついてきたときだって、なんだかすごく近しくって懐かしく想えたもの」
 「そうかぁ~。うふふ。あ、おいらのことはソッラって呼んでね」
 「うんっ。あれ?もしかして何処か遠くの地方の出身なの??」
 「ううん。一応親がくれた名前はあるけど気に入ってなくって。あ、“ソッラ”は遠い古代のことばで、“へそ”っていう意味なんだって」
 「ふうん、そうなんだあ。“へそ”って名前には何か意味があるの?」
 「“へそ”じゃなくて“ソッラ”だからねっ。“いんぱらのへそ”っていう人たちの音楽が好きで、いつかおいらも“世界のへそ”っていう名前でみんなの前で唄が歌いたくって・・・」
 「“いんぱらのへそ”かあ、あっちの世界の、だよね。懐かしいねっ。ピノも気に入っていたものね。でも、、、こっちの世界じゃ楽器は、、、それに唄だって、、、」
 「うん。わかってる。でもね、今、シェフ、、、うんっ、シェフにはおいらの唄が聞こえていたよね?」
 「あ、そういえば、、そうだねっ。ほんとにピノみたいだったからその違和感にぜんぜん気づかなかったけど。あ、あとぼくのことは、、、う~ん、と、、、ま、“おかゆ”って呼んでね、、、」
 「、、、、、、ぷふっ、ぷふふふ~っ。え~っ“おかゆ”っていうのぉ??へんななまえ~っ笑」
「ぬ。ぬぬぅ。わ、わかってるって。だから、ちょっと詰まったんじゃないかぁ、、、、、、、へそっ笑」
 「あ~っ、ば、ばかにしたぁ~っ、、、おいらの、おいらの、夢が詰まってるのに~っ」
 「ん、、夢、かぁ、、でも、ほんとにこの世界で音楽なんて、できるのかな?」
 「たぶん。。さっきも言ったみたいに、、“おかゆ”、、う、く、、こほんっ」
 「うお~いっ、わざとらしいぞ~っっ」
 「にゃはっ、ごめんにゃぁ~」
 「うわぁ、ピノになってごまかしちゃったあ」
 「うふふ。それでね、おいらの唄が聞こえていたよね?」
 「うんっ。確かにそうだよ。て、なにか置き去りにされてる感が、、、」
 「うふふふっ。だからね、そういうこともあるみたいなの。きっと、なにか霧の目をごまかす抜け道があるのかもね。だから楽器だって、いつかはあたらしく創れると想うの」
 「そうなんだあっ。て、とりあえず、すでにぼくはうまいことごまかされている気がするけれど、、、」
 「いやいや、誰がうまいこと言えと言った?」
 「ふえっ??なんで上から目線??しかもなんかキャラが違うっっ??」
 「どうした?“おかゆ”??」
 「うう、ぐむぅくくぅ~、、、な、なんかムカつく、、、」
 「まぁ、あまりカリカリするな。身体に良くないゾ。“おかゆ”よ。」
 「ぅうぬぬ、、ええい、もうええわいっ。好きにしろいっ。そうかぁ、でも抜け道、ってなんだか懐かしいね」
 「おぬし、なかなか切り替えが早いのぅ。尊敬するぞ。」
 「う~ん、なんだか褒められた気がしない、、、」
 「うふふふふ。でも、、そうだね。“真夏の抜け道”はとっても懐かしくて、それに大切だね」
 「そうそう、あそこで、ピノがこうやってシェフの手を握ってきて、、」
 「うん。シェフが、最後まで手を引っ張ってくれた。みんなと逸れたピノを、ちゃんと出口まで引っ張っていってくれた。ありがとう」
 「ううん、こちらこそ、シェフの方こそ、ピノに会えてほんとにうれしかったんだよ。あのときピノがくれたメッセージカード、シェフは今でもいちばんの宝物にしているよ」

 そんな風に、他愛のない会話を続けながら、まるで夢の中の少年と少女がそうするように、手を取り合って歩いた。ひとしきり歩いて、霧の煙る一帯も通り抜けて、ぼくたちは誰もいないバス停の錆びれたベンチに座り込んだ。会話の流れもひと段落して、ぼくはなかなか言えないでいたことばをやっと言う事ができた。
 「そういえば、ソッラ、、それにピノ、、このまえはごめんね、、さっきソッラが抱きついてきたときに、ああ、この仔たちはこんなにもがんばっているのか、こんなになるまで闘っているのかって想ったよ、、それなのにこのまえはあんな風にひどい仕打ちをしてしまって、、、」
 「ううん。それはもう、いいのだ。ピノはもう、シェフが書いてくれたお空の交換日記を読んだよ。うさこちんとちびうさにお説教をされていたねっ。それに、みんなでいっしょに、また遊ぼうね~って、そう言ってくれたのが、おいらもピノもうれしかったよ。」 
 「そうなのか、、シェフももうピノが書いてくれた交換日記を読んだみたいだよ。あのことには一切触れずに、ただ楽しかったことうれしかったことを、とてもとても大切そうに書きとめてくれていて、、それを読んでシェフはますますちゃんと反省しなきゃって想えたみたいだよ。ありがとね。ぼくからもお願いするけれど、またシェフたちと遊んであげてねっ」
 「あたりまえにゃぁ~っ。うふふ。ちょっとピノっぽく言ってみたのだ。遊ぶのはおいらじゃないけど」
 「うんっ、ありがとね。あと、、ピノが言っていたけど、、さいきんはほんとにしんどいって、、、」
 「・・・・・・・・・」
 急にあの仔の顔色が変わった。光が落ちたみたいに。ストンって、深いところに落ちたみたいに。
 「・・・・・・・・・」
 沈黙がしばらく続いた。重たくて、鉛のように沈んだ黒い目が、何処か遠くを虚ろに覗き込んでいた。
 「・・・・・・・・・・・・鳴き声・・・低くて・・・重たくて・・・地面・・・から・・・ずっと・・・響くの・・・ゴミ捨て場・・・で・・・待ってるの・・・待ってて・・・こないの・・・ずっと・・・ずっと・・・周りが・・・暗く・・・て・・・黒く・・・て・・・だれも・・・なにも・・・こないの・・・棄てて・・・くれないの・・・連れてって・・・もらえないの・・・」

 ひとつも、言葉は出なかった。どうすることもできなかった。要するに、なにかドロドロと澱みきった空間で、じぶんが棄てられるのを延々と待っているということなのだろう。でもそれが何を意味しているのかは皆目わからなかった。あの仔はまるで何処か遠くの重たすぎる闇とでも交信するみたいに、ぼそぼそと、機械的に、弱々しくつぶやいていた。その姿はロボットのようでも、呪術に吸い尽くされた抜け殻のようでもあった。ちっぽけなぼくには巨きすぎる、持て余す狂気だった。あの仔は気違いじみた絶望のイメージを淡々と吐いた。その静かな異常さに、手足が凍る想いをした。そこには深い諦めと重たい虚無があった。こんな形も見えない巨きな敵に、ぼくはどう立ち向かえばいいのだろうか。なんにも見えない気がした。希望なんかすでに何にもない気が。光なんかとっくに消えうせていたという気が。
 これだったのか、と想った。ときどき夢の中の少女も似たようなことを口にしていた。こんな風に別人のようになって。それはいつも断片的で、突如として洩らすあまりに不可解な一言に過ぎなかったけれど。だから、会話の中で、ともに過ごす時間の中で、深く気に留めることもなく流れていった。心配はしていた。でも忘れ去られていった。“からっぽ”だとか、“蜘蛛の巣”だとか、“ゴミ捨て場”だとか。確かそんな言葉をつぶやいていた。ぼくも、あの少年も、けっきょくは心配するフリをしていただけだった。今まで見過ごしてきたものの重たさが、哀しさが、少しだけわかったような気がした。こうしてまたひとつ、自分の無知を、愚かさを知った。それでまたこのまえのことが頭をもたげてくるのだった。ぼくらはなにをしていたのだろうかと。そうしてまるで自分のことのように深く鋭い後悔に撃たれた。なにも知らないのは、案の定ぼくたちの方だったじゃないか。なんてバカみたいな。なんて間抜けな。自分を責めたてる言葉が、さっき以上に止め処なく溢れた。なんとか心の表層は取り繕うとしたけれど、やっぱりその後の会話は何処かぎこちなかったように想う。今となっては、なにを話していたのかもまったく覚えちゃいない。ただ別れ際のあの仔の言葉の、サラッと吐き出された息苦しさや哀しさだけが刺のように心に残っていた。

 「あ、、、そろそろ行かなくっちゃ。もうあのおっさんも寝た頃だろうから。さっき怒鳴っててすごく恐かった。でも、あんまりおそくなって、昼とかに起きるとすごく申し訳なくなるから。なんにもしてないのに、家庭にお金も入れてないのに、せめて家事ぐらいは手伝わなくちゃ、ね。おかゆ~、また会おうね。ときどきあんな風にあの辺をプラプラしてるから。シェフやうさこちんやちびうさにもよろしくね。おかゆ、、今日はありがとう、、、」
 そんな言葉を放って、あの仔は、また儚くも朗らかに笑った。その様子はやっぱりあまりに尊くて、なにより愛しかった。あの仔はまた霧の煙る町外れへと消えていった。安アパートへの帰り道、また流れ星をひとつ見た。そのタイミングのよさに、なにか因果めいたものを感じた。やっぱり霧がぼんやりと、疾走する星の輝きを隠そうとしていた。ぼくはまた腹が立った。ところかまわず、当り散らした。廃屋の爛れた土壁だとか、見棄てられたように錆付いた旧いフェンスなんかを、か細い脚でみみっちく蹴り上げた。足がじんじんした。バカでかい物音が立って、近所のクソヤローやクソアマの飛び起きる声が聞こえたりもした。でもそんなことはどうでもよかった。知ったこっちゃなかった。世界がくだらないなら、ぼくもまたくだらなかった。つまんない世界に立ち向かおうと想うなら、まず自分が変わらなきゃいけなかった。でなけりゃ、見切り発車でもなんでも奴らと向き合いながら少しずつだろーが変わっていかなきゃいけない。そう、心の底から想い知らされていた。そんな揺れやすい決意を胸に秘めながらも、そのときぼくがしていたのはやっぱり相も変わらない、てんでなまぬるい、猿のオナニーみたいな愚行に過ぎなかったのだけれど。
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