ソバカス隊長と暗闇の蜜蜂
おまけ

蜜蜂の目の中の蝙蝠

 彼女が、ノルディ=トットという名前になった日の宴席。ソバカス隊長ことライマーに向かって、彼の友人の一人が酔っ払ってこう言った。

「それならお前は、ノーディ(のんだくれ)=トットにしてやる!」

 友人にお酒のジョッキを押し付けられたライマーは、そんな相手に一度ジョッキを押し返したかと思うと、その頭をゴツンと殴りつけ、改めてジョッキを受け取って飲み干した。

「可愛いノルの名前で今度からかったら、お前の顔にソバカスの刺青を入れてやるからな」

 かなり飲まされて酔っ払っていたライマーは、空になったジョッキを置くや、とどめとばかりに殴られてほけっとしている友人の鼻先めがけて中指を弾く。

 そして酔いつぶれてしまった男──それが、ノルディの夫だった。


 ※


「本が沢山あるんですね」

「ああうん、まあ仕事柄ね」

 ようやく引越しの荷解きが全部済んだのは、結婚して2ヶ月が経とうとしていた頃だった。ノルディの夫ライマーは、結婚後すぐに国境まで遠征に行かなければならなくて、いきなり離れ離れの生活を余儀なくされたからだ。

 ノルディは、夫が不在の最初の頃は掃除ばかりしていた。安息日には結婚前までお世話になっていた神殿に行き、夫の無事を祈る。時折、ライマーの上官であるワルター上級大佐の奥さんが誘いをかけてくれた。

 軍の婦人会というのにも誘われた。「庶民の方の婦人会だから気楽よ」とワルター夫人は笑っていた。チャリティのバザーなどを行っているという。そこで、ノルディは夫人に端切れなどをもらい、それを縫い合わせて枕カバーなどを作ることを始めた。

 夫がいない静かな日々を過ごしていた彼女の元に、二ヶ月近くたってようやく「ノル! いま帰ったよ!」と、ライマーが駆け込んできた。

「お、おかえりなさいませ……あなた」

 結婚してすぐいなくなってしまったため、ノルディは彼の存在に慣れずに戸惑う。「今度こそ、三日休みをもらったからね」と、夫に抱きしめられる間も、身体を固くしたまま「は、はあ」と緊張ぎみに答えることしか出来なかった。

「変わったことはなかったかい? 不安だったろう。ああもう、本当にごめんね」

 長い間の不在を、ライマーは一生懸命言葉で埋めようとしてくれた。いや、言葉だけでなく何回も何回も抱きしめて顔にたくさんのキスをして、彼という人間を思い出させようとしてくれた。

 ノルディの胸に、じわりと温度が戻ってくる。一人ぼっちの二ヶ月間、平温を続けていた体温が、ほんの少し上がったのが自分でも分かった。

「ご無事で、嬉しいです」

 おぼつかない言葉で、彼の帰宅を喜ぶ言葉を探す。ひとつずつ積み上げていくはずだった日々に出来た大きな空白を、そうしてノルディもまた埋めようとした。

「うんうん、私もノルが無事で嬉しいよ」

 少しだけライマーが顔を下げると、すぐに二人の目の高さは同じになる。すぐ側にソバカスの彼の鼻がある。

 巡礼の道中の時は、このソバカスを見られるほど明るい中で近くに寄ることが出来ず、逆に見えない暗がりでは側にいられる時もあった。

 結婚後もまた、側にいられる時とそうでない時の差が激しい人となった。

「よいしょっと」

 すぐ側にあった顔が、ノルディの胸の当たりまで降りてきたかと思うと、父親が娘を抱っこするような形で抱え上げられる。

「あ、なた?」

「夢じゃないか確認しているんだよ。あっちで何度も夢に見たけど、気が付くと目が覚めて悔しかったからね。こうして本物の重みを味わってる」

 意図が分からずに、しかし暴れられないままノルディがオロオロしていると、ライマーは本当に悔しそうに、その後楽しそうにそう言った。

「このまま二階に上がってもいいかい? 面倒な現実が、また私の腕を掴んで引きずっていく前に、ノルに夢中になりたいよ」

 彼は、不思議な言葉を使う。少しだけ遠回りする言葉だ。難しくはないはずなのに、ノルディの知らない道を通るその言葉は聞いていて気恥ずかしくも心地いい。

 小さく「はい」と言うと、「いやったあ」と子供のように喜ぶ。随分年下のはずのノルディが、可愛いと思えるほどだ。

 けれど──「可愛いノル」と言葉にしてくれたのは彼の方だった。


 ※


「それは『雪原』、雪の野原のことだね」

 ライマーの蔵書の中から、簡単な本を彼は選んでノルディに勧めてくれた。そこで、恥ずかしい事実が発覚する。

 神殿で習う読み書きは、あくまでも最低限のことで、渡された本のあちこちに知らない言葉が一杯だったのだ。

 そんな彼女に、テーブルの横に座ったライマーが、ひとつずつ読み聞かせながら説明してくれる。これらの文字が知識として、全て彼の頭の中に入っているのだと思うと、本当に賢い人なのだと思い知る。

「雪の中で狼に狙われた兎の寓話だよ」

 子供の頃に、祖母がよく語ってくれた物語でねと、ライマーが言った。子供の頃、彼は父親と離れて鉱山に住んでいたという。

 雪原の中で、兎は白い毛皮を武器に身を隠そうとする。そんな兎を、冬の飢えた狼は食らおうと探している。「動いてはならないよ」と母兎は子兎に言うが、子兎は本当にすぐ側までやってきた狼の気配に耐え切れずに雪の中を飛び出してしまう。追いかける狼。逃げる子兎。その子兎は無事林の中の木陰へと逃げ延びた。「ああ良かった」と振り返った子兎が見たものは、自分の母が狼にくわえられている姿だった。それ以来、子兎は不動の兎となり、最後まで狼に捕まることはなかった。

「『不動』……動かないこと、だね」

「悲しいお話です」

「そうだね。でもこれは、親が子供に危ないことをしちゃいけないよと教えるための物語に過ぎない。『危ない』と言葉で言っても伝わりにくいから、母兎が犠牲になっただけだよ」

 同じ本を読んだはずなのに、ライマーの口からは全然知らない言葉が出てくる。

「でも、この本……大事にとってらっしゃるんですね」

 難しそうな本がたくさんある中で、この寓話は異彩を放っている気がした。

「あー、うん、そうだね。恥ずかしい話……私はおばあちゃんっ子だったんだよ。母親にことは覚えてなくてね。これを見ると、おばあちゃんを思い出すよ」

 この本は、後から本屋で探して買ったんだ。

 はにかみながら頭をかく、少し情けない顔のライマー=トットという男は、とても素直な人だとノルディは感じていた。

 寂しさも祖母への恋しさも、決して変に飾ったりせず言葉にする。それは、ノルディに向けられる感情も同じだった。

「わ、私もちゃんと動かないでいます」

 思わず、彼女はそう口にしていた。ライマーは、これからも仕事でしょっちゅう家を空けるだろう。その度に、家にいるノルディのことを心配しなくていいと伝えたかったのだが、そんな言葉になってしまった。

 一瞬、きょとんとした顔になった後、ライマーが「あははははは」とおかしそうに大きく口を開けて笑う。

「ありがとう。でも、ノルディの代わりに食われてやるのは腹が立つから、私は狼に蹴りを入れてでも一緒に逃げるよ」

 本当に愉快そうに、笑ってそう告げるライマー。

 巡礼の帰り道の事件を思い出して、ノルディはそれが嘘でも何でもないことをちゃんと理解した。

 ああ、と彼女は幸せなため息をつく。

 素直で優しくて──それでいて頼れる男の妻になれたことを、この時のノルディは嬉しさとして噛み締めたのだった。


『終』

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