ソバカス隊長と暗闇の蜜蜂

コウモリ大佐と暗闇の妻蜂

「すみませーん! すみませーん!」

 家の扉を激しく叩く音に、夕飯の仕度をちょうど終えようとしていたノルディはびっくりした。慌ててかまどから鍋を下ろし、火が大丈夫なことだけを確認して玄関へと向かう。

「あの、どちらさまでしょうか?」

 胸がどきどきしているのは、急いで来たせいだけではなかった。

 家にお客が来ることはそう多くはない。ノルディの元々の知り合いは神殿関係者だけしかおらず、その場合は声を聞けばすぐに分かる。結婚後に紹介されたワルター夫人もまたそうだ。

 逆に言えば、それ以外は、ほとんどがノルディにとって知らない人であり、正しく対処することが出来るかいつも気がかりだった。

 今日の訪問者の声は、声変わりこそすんでいるようだが、まだ若々しい少年のもののようだった。

「あの、妹はこちらに来てませんか? あ、僕、兄さんの弟で、ええと、ライマー=トットの弟のカミル=トットです! 妹が、ニーナがいなくなって!」

 扉の向こうの少年は混乱しているようだったが、それでも正しく自分を示す言葉を紡いでくれた。その瞬間、ノルディの脳裏には結婚式の宴席の記憶が甦る。

 ライマー側の家族の中で大人しくしていた少年と、義姉が出来て嬉しくてしょうがないというようにノルディの周りをくるくる回っていた女の子。

「おねぇちゃん、おねぇちゃん」とはしゃいでいた、あの黒髪の少女がどこかに行ってしまったと聞いて、彼女は慌てて扉を開けた。すると、確かにそこに立っていたのは、ライマーの異母弟だった。

 事情を聞くと、ニーナは母と大ゲンカをして家を飛び出してしまったが、いつまでたっても帰ってこないし、友達のところにも行っていなかった。近場を探したがどこにもいないので、一応この家の場所をニーナが知っているということもあって確認に走って来たという。

 これには、ノルディも心配せざるをえなかった。義妹がどこかで迷子になっているかもしれないのだ。大通りの治安はいい方ではあるが、裏通りに入れば危険なところも数多くあるのが現実だ。

 ニーナは、まだほんの十歳。どんなに心細く怖い思いをしているかと考えると、ノルディの胸は心配に締め付けられる。

「こちらの方も探してみますから」と、彼女はカミルを勇気付けて帰らせる。

 一度扉を閉めて、ノルディは考えた。もうすぐ暗くなる。自分があてもなく走り回るより、まずはライマーに相談した方がいいだろう、と。

 しかし、夫の仕事が終わる時間は不規則だ。出来るだけ早く帰ってきてくれようとはするのだが、それでも遅くなる日はある。彼の家族の一大事。早く伝えれば、きっと夫が何とかしてくれる。

 ノルディはそう考え、家を出ることにした。

 あてどなく探すのではなく、ライマーが働いている基地に行って事情を伝えてもらおう、と。そこまでならそう遠くもなく、彼女は道を知っていた。

 昔、巡礼から帰って来た後、そこへ彼女はマントを返しに行ったことがあった。旅路で出会ったソバカスの隊長さんから借りた、温かく軽い緑のマントだ。

 そんな懐かしい記憶にひたる暇もなく、急いでかまどの火に灰をかけて消し、ショールだけを取って彼女は家を出る。ちゃんと鍵もかけた。はやる気持ちはあるものの、ノルディはここまで正しい判断をしたつもりだった。

 ライマーなら何とかしてくれる。ただそれだけを考えて、暗くなる大通りを基地へと急いだ。

 小走りに駆けてきたため、はあはあと息を乱しながら彼女は基地の入口へとたどりつく。門があり、その両側には門兵が二人立っている。すぐ中には詰所がある。

 前にマントを返しに来た時と、何も変わってはいない。あの時と同じように、ノルディはまずは門兵へと声をかける。

「す、すみません、ラ……ライマー=トットに面会か伝言をお願いしたいんですが」

 夫の名を口にする時のどきどきは、またこれまでと違ったものだった。しかし、いまはそれをためらっている場合ではない。絡まる舌を、何とかほどいてノルディは声を出す。

「あ……れ? トット大佐って?」

 しかし、門兵は妙な反応をした。合点がいかないという顔で、向かいのもう一人の門兵を見る。

「少し前に、スキップしながらお帰りになってたな」

 そのもう一人の兵の言葉に、ノルディは愕然としてしまう。どこかですれ違ってしまったようだ。大通りは、馬車も通るため道幅が広い。反対側の歩道を行けばすれ違う可能性はあるし、どこかに夫が立ち寄っている可能性もあった。

「そ、そうですか、すみません」

 ここでショックを受けている場合ではないと、ノルディは自分を奮い立たせた。家に帰ったというのなら、話は早いではないか、と。急いで家に帰り、改めて事情を伝えればいいだけである。

 重たくなってきた足を叱咤して、ノルディは門兵に会釈をした後、家路へと足を速めた。

 大通りには多くの店がある。同時に、多くの店が閉まる時間でもあった。これからは夜の店が開き、歩道には花売り娘が出始めている。女性を連れて食事や観劇に出かける紳士へ花を売るのだろう。

 花売り娘の多くが犯罪組織の下で働かされている子供たちだと、ノルディは聞いたことがある。親に売られたり孤児になったところを連れて行かれ、お金を稼ぐ仕事をさせられるのだと。

 だからその子たちとは関わってはならないと、ノルディは教えられていたし、その言いつけを守っていた。

 守っていたのだが──それどころではなかった。

 花かごを腕にかけ、泣きそうな顔で花を売ろうとしている少女の顔に、激しく見覚えがあったからだ。

「ニーナちゃん!」

 急いでいたせいですっかり息があがっていたことと、驚きが飛びぬけ過ぎていたことで、ノルディは自分でも驚くほどひっくりかえった大きな悲鳴をあげてしまった。

 次の瞬間。黒髪の花売り娘は、全身の毛を逆立てさせたかのごとく驚いて、花かごを放り出すや逃げ出してしまう。

 間違いなく、ノルディがニーナだと確信する瞬間だった。何故こんなことをしているのかと混乱はするものの、まずは義妹を捕まえなければならないことだけは分かる。

 ノルディは一生懸命、少女を追いかけた。

 右に曲がり、左の路地に入り、明らかに自分より足の速いニーナに置いて行かれまいと必死に駆けた。

 そしてようやく行き止まりで、ノルディはニーナと向かい合うことが出来た。

「いや、帰らない。帰らないー!」

 泣きながらニーナが大きな声をあげる。

「だ、大丈夫だから……大丈夫だからね」とノルディは必死に義妹をなだめようとした。

 建物の間の細い路地の行き止まりには、もはや消えかけた西側の光など、ほとんど入らない。淀んだ空気と臭いが、ノルディをまたも別の意味でどきどきさせる。

 そのどきどきには、悪い意味が含まれていた。


「うちの花売り娘に、何の用かな?」


 そんな時。

 ノルディの背後から聞こえてきたそれは──とてもとても優しい声だった。

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