たなごころ―[Berry's版(改)]
1.始まりの紅
 週末を控えた木曜日。帰宅ラッシュの時間を迎え、駅前からひとつ中へ入ったこの道も人の行き来が激しい。日の長い今の時期、宵がおりるにはまだ早すぎるはずなのだが、辺りは闇に包まれていた。バケツを引っくり返したような、突然の豪雨をもたらせた厚い雲のせいだ。追い立てられるように、人々は家路を急ぐ。
 しかし、その流れを遮るように佇む女性がひとり。傘を持っていないその女性は全身ずぶ濡れだ。すれ違い様、訝しげに表情を歪める者や、肩をぶつけ遠慮なく舌打ちする者。好奇をも含んだ多くの視線が彼女へ向けられていても、気遣いの言葉をかける者は誰ひとりとしていない。だが、彼女がそれを気に掛けている様子は全くなかった。彼女には周りが見えていなかったから。いや、周囲の雑踏すら全く耳に入っていないことだろう。親の仇がその場にいるかの様に、ある一点を見据えている彼女には。

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